「あーあ」
　長い長い夏休みが明けた。
　学校が始まったのは、生徒だけじゃなくて教師の私としても、残念だ。
　一日中ジャージでだらだらとテレビ見ながら過ごしていても許されていた昨日が嘘みたいに、今日からは毎日決まった時間に起きて、着替えて、メイクして、家を出る。
　そんな規則的な日々がこれからしばらく続いていくのだから。
　嗚呼そうやって、知らず知らずのうちに年を取っていくのかしら。
　ふぅと窓辺に項垂れ、校庭を見渡しながら、私はもう一度大きくため息をつく。
　下校していく生徒たちの後姿は、皆キラキラ輝いていて…
「なんかみんな。かわいくなってない？」
　ポツリと呟いた言葉は、単なる独り言だったのに、思いがけず返事が返ってきた。
「そりゃ決まってんでしょ。女子の多くは、ヒトナツノケイケンってのをしちゃってますから」
　振り返るとよく日焼けしてニヤけた顔の山口と、一人涼しい顔してる赤平が立っていた。
　三十手前のがけっぷち女の哀れな表情を、私は慌てて教師の顔に作りかえた。
「二人とも、何してるの？もうホームルームは終わってるわよ」
「ホームルーム終わっても、教室に居ちゃいけないなんて校則ないでしょ、先生」
　山口はニキビ面で、さらにニヤけた顔を、私に向ける。
　その隣の赤平は、これまた山口とは反対に、つるんとした陶器みたいな肌の上に、何の表情も浮かべてない。
　男のくせに、無駄に綺麗なところが、何だか腹がたつ。
　そんなところ何も気にしてないってところが特に。
　女子高生から見ると、赤平の無愛想は、クールになって、かっこよく見えるらしい。
　まあ、見た目がいいのは認めるけど、私からすると、まだまだガキだ。
「それにしても焼けたわね。部活？」
　そういうと、山口は更にニヤニヤと笑った。小麦色の肌が、さらにテカテカと光って、何だかいやらしい。
「海行ってたんだ。亜香子ちゃんってば、逆に真っ白。夏休み、海で遊んだりしなかったわけ？」
　むっ。
　この歳になると、焼けば焼いただけシミになるだけなのよっ。
「いいから、用事がないなら、もう帰りなさいよ」
　くだらないやり取りを続ける余裕もなくて、私はさらっとそう答えた。
　なのに、今日の山口はいやに絡んでくる。
「へーへー。先生も、口うるさすぎると、彼氏に愛想尽かされるから、気をつけなよ」
　何も知らないくせに、いや、知らないからこそ、その言葉に、思い切り心が痛む。
　だいたい、忠告するのが遅すぎるんだよ。
「山口、そんなことより夏休みの宿題ちゃんと済ませたの？」
「亜香子ちゃんの英語は、課題なかったでしょ」
　一回り以上も年上の女をチャン付けなんて、あんたはいったい何者だ？
　私は大人の女性としての、余裕の笑みを浮かべて山口に言う。
「副担任としての忠告よ。もう高三なんだし、いくらエスカレーター式に大学があるっていっても、そろそろ真剣に勉強始めないと、希望の学科になんか行けないわよ」
　私の勤める高校は、初等部から大学まであるモンスター校。ほっておいても、大学までは上がれるとはいっても、人気の学科にはいるのは、それなりに勉強してなきゃならない。
　もうさっさと帰りなさい。
　そんな気持ちは、どうやら山口にもわかってしまったらしい。
　にやけた目が探るように私の顔をじっと見つめる。
「あれ？なんか、亜香子ちゃんカリカリしてない？もしかして、彼氏とケンカ中？」
「うるさいわねっ」
「タカ、お前矢内と待ち合わせは？」
　意外にも、助けてくれたのは赤平だった。赤平のその言葉に、山口は声を上げる。
「あ、やべっ。校門で待ち合わせてるんだった。じゃ、お先っ」
「矢内？」
　思わず口にした名前に、赤平が答える。
「一年E組の矢内愛子」
　知ってるわよ、彼女なら。
　お人形みたいに本当にかわいいって、生徒だけじゃなくて、私たち教師の間でも、評判なんだから。
　それにしても山口、今『待ち合わせ』とか言ってなかった？
　赤平は、私の心を読めるのか、その疑問にすぐ答えた。
「付き合ってるんだ。あの二人。夏祭りから」
「うっそー」
　驚いて、私は窓に飛びつき、身を乗り出してグランドを見渡した。校庭をダッシュする山口が見える。そして、その姿に気づいて、校門から姿を現したのは、間違いなく矢内愛子だった。二人は、仲良く手をつないで校門をくぐっていく。
　ほんとに？
　だって、あの山口よ。
　授業中にこっそりエロ本見てたり、
　教科書に出てくるイラストに、サングラスとか髭とか描いちゃう山口よ？
　それに、そうそう。矢内さんには、三年の野口っていうこれまたお似合いの爽やか青年と付き合ってるはずだったし。
「ふられたらしいよ、矢内。で、それ聞いた山口が猛チャージしたってわけ」
「ふ、ふーん」
　気づくと、グランドには、其処彼処ラブラブなカップルばかりだ。
　ちょっと皆っ、この夏に何があったってゆーの？！
「夏祭りで付き合いだす奴ら、多いらしいから」
　なんですと？
　学生の本分は、勉強でしょうっ。
　恋愛にいそしむ前に、勉強しなさい、勉強っっ。
　明らかにひがみ根性から、鼻息を荒くしていると、くすくすという笑い声が聞こえてきた。
　はっと気づくと、隣にいる赤平が笑っている。
　やっ、やだ、私ってば。
「あっ赤平も、誰か待ってるんじゃないの？」
　特定の相手との噂は聞いたことないけど、もてるんだし、くらいのノリだった。
　とにかく、私は一人になりたかったのだ。
　山口のボディブローは、さりげなくじわじわと効いていたし、
　目の前で幸せそうなカップルも見て、早く独りになりたかったのだ。
　教師の顔じゃない、二十九歳の一人の女である、深月亜香子に。


　だけど、ここから、赤平の暴走が始まったのだ。
　いや、そう気づいたのは、もっと後のことだったけど。


「で、先生。本当にケンカ中なわけ？」
「え」
「彼氏」
　一歩踏み込まれた質問に、私はまた傷つきながらも、無理やりな笑顔を作った。
　ここは、大人な対応を。
「いないわよ、彼氏なんて」
　間違っていない。私はいまやフリーの身だ。
「フラれたんだ」
　赤平の身も蓋もない言い方に、私は思わず言い返していた。
「ええ、フラれたわよ、それがどうかしてっ？」
　赤平の表情が、僅かに崩れる。
　いかん、いかん。大人な対応って決めたのに。
　私は再びにっこり笑顔を作った。
「この話はここまで。さあ、もう帰りなさいー」
「それじゃさ、俺と付き合わない？」
　思わずドキリとした。
　笑みを浮かべた赤平の表情は、妙に色っぽかったし、
　何より私の心は傷ついて、人の優しさにすごく敏感になっていたのだ。
　いかん、いかん。
　相手は高校生。
　こんなの優しさじゃなくて、冗談なんだから。
　軽く流さないと、逆に本気にしてるって馬鹿にされる。
「またまたー。赤平。そんなキャラじゃないでしょう」
　だけど赤平はいたって真剣な表情で言った。
「勿論、本気だ。
　ああ、付き合うっていうか、結婚しない？俺と」
　え？
　ええ？
「えええーっっ？」