「新しいユニホームだ、朔哉」
　翌日、練習前に光一に呼び出された朔哉は、突然ユニホームを渡されて驚いた。
　ありがとうございますと言ったものの、昨日の出来事が頭をかすめ、どこか素直に受け取ることができなかった。だが、そんな朔哉にユニホームを半ば無理やり渡し、とグランドに向かおうとした光一を、思わず朔哉は呼び止める。
「あの、司は」
　渡されたユニホームは朔哉のものだけだったし、練習の時間になっても司は部室に現れなかったのだ。
　光一は、僅かながら、顔をゆがめた。
「手を上げたのは全員見てたからな。三日間謹慎とした」
「そう、ですか」
　退部にならなかったことを朔哉は少しほっとしていた。
　朔哉にとってみれば、司がしてしまった行為は、一歩間違えば自分が犯していた行為で、どこか司が自分の身代わりになってくれたような気持ちになっていたのだ。
「コウ」
　ふいに聞き覚えのある澄んだ声がして、それに光一が答える。
「美智。どうした？」
　光一の恋人が来たらしい。思わず振り返ったところで、朔哉は小さく声を上げた。
「うん。ちょっと聞きたいことがあったの。あれ？」
　目が合うと、昨日の人魚・原田美智子も朔哉に気づく。そして、美智子は、自分が声をかけた光一を忘れ、朔哉に話しかけた。
「いいこと、あった？」
　にっこりと笑う美智子の笑顔は、昨日と変わりない。
　朔哉の鼓動が、少しばかり早くなる。
「昨日、おいしいクッキーもらいました。ごちそうさまです」
　会話する自分の彼女と後輩を見て、光一は首を傾げながら、美智子に尋ねる。
「知り合い？」
　どう答えていいのか、朔哉が困っていると、くすくすと美智子が微笑むと、
「ふふ。それは二人だけの秘密よ。ね。それはそうと、コウちょっとい？」
と、光一の手を取って、朔哉の前から姿を消す。
　秘密と言ったその一瞬、美智子は朔哉を見て微笑んだ。
　大人の女性の中に、いたずらな少女を見た気がして、朔哉の鼓動はいっそう早まっていた。



　司の暴行は、少しばかり部内で問題になっているらしく、練習後の部室では、一部の人間などは退部した方がいいといい始めていた。もともと素行もよくないし、時間も守らないふざけた奴だったと。
　朔哉はそう言った人間が、影でタバコもお酒も呑んでいることを知っていたが、何も言い返せなかった。何かを言えば、今度は自分に非が回ってくるように思えて、何も言い返せなかった。
そんな自分がもどかしくて、練習後、いつもの特別練習をさぼると、凪浜の防波堤にやってきたのだった。
　しばらく海を見ていると、ふいに海風の中から声がかけられる。
「君が福山朔哉くんだったんだ。色々話は聞いてます」
　振り返ると美智子が一人で立っていた。
　色々とはどういうことか、考えることも無く朔哉は言った。
「嘘です」
　え？と小さく美智子が言う。
　だが朔哉は、それを無視して話した。
「俺は、みんなが思ってるような福山朔哉じゃない」
　少し経って、美智子が尋ねる。
「みんなって？」
　嘘のない戸惑いの声に、今度は朔哉が戸惑った。
「色々って、中学時代アイドルとかって騒がれてたって話じゃないんですか？」
「え？じゃ、淳子ちゃんが騒いでる何でもできて、アイドル級に可愛い一年生って朔哉君のこと？」
　朔哉と美智子はお互いを見つめあう。
　そして嘘がないことを証明するように、美智子が、
「コウがね、いい後輩が入ってきたって言ってたのよ」
と答えた。
　光一が、というところで、朔哉は思わず言い返す。
「別に俺は可愛くなんかないし、優しくもない。いい後輩でもない。同級生のことだって、庇えない。
　ただの、ちっぽけな人間です」
　早口でそういうと、肩の力が抜けたのか、どこかすっきりした気持ちになった。
　と同時に、ものすごく後悔をした。
　どうして、自分は憧れの先輩の彼女に、こんなことを言っているのだろう。
　こんな、自分勝手なことを。
　俯いた朔哉の耳に、なだらかな潮風と、美智子の澄んだ声が響く。
「そうかな。
あたしは、どっちの朔哉君も、福山朔哉に思えるよ。
　サッカーを一生懸命やってる朔哉君も、
　ここで愚痴を言っている朔哉君も。
　学年でトップクラスの成績をとる朔哉君も、
　コーラを飲んで咳き込む朔哉君も。
　海に飲み込まれそうになってる朔哉君も。
　みんな朔哉君でしょ。
　そうじゃない？」
　それでも朔哉が黙り込んでると、一歩前に進んで、あのね、と美智子は続けていった。
「あたしもね、何だかよく誤解されるの。
　理想のお嫁さんって。
　それで、ちょっと悩んだことあったけど、コウに言われたんだ。
　他人がそう思うのだとしたら、それもあたしの一部かもしれない。
でも一部、 であって、決して全部じゃない」
　力強くそう言った美智子に、朔哉は小さく言い返す。
「けど」
　すると美智子はぱっと朔哉の方を振り返る。
「だったら、サッカーでＡチーム入りした朔哉君は、偽者の朔哉君だとでもいうの？」
　それだけは、違う。
　そう強く思った朔哉の心を見透かしたように、美智子は言う。
「朔哉君は、朔哉君よ」
　簡単にだが、美智子はあっけなくそう告げた。
　そして、それを素直に受け入れている自分に、朔哉も気づいた。
　その細い体に、ものすごく強いパワーが宿るのを朔哉は感じ、同時にそんな美智子に強く惹かれていることにも気づいた。
「アイドルの朔哉君は、本当の朔哉君の一部であって、決して全部じゃない。
あたしが、コウからもらった大事な言葉。朔哉君にあげる」
　美智子の笑顔を見つめながら、朔哉は自分が愚かなことに気づいた。
　俺って、馬鹿だ。
　恋なんか、しないと思ってた。
　そもそも、それが間違いだった。
　だって、恋は、自分の思い通りになるはずもない。
　恋するときは、そういう時なのだ。
　相手がどんな人であろうとも。
　それで、自分がどんなに傷つこうとも。
　…けど、美智さんは、コウさんの彼女だ。
　　一瞬にして罪の意識に襲われた朔哉は、思わず俯いた。水面に映った夕日が、黄金色に輝いて、目に沁みた。
　静まり返った中で、ふいに美智子は明るく声を上げる。
「あ。ごめん。偉そうなこと言って、ひとつだけ、嘘ついてることがあった」
え？と朔哉が思わず顔を上げると、美智子は顔の前に両手をあわせ、ごめんと思い切り頭を下げた。
「あのね、昨日のクッキー。本当は私が作ってきたのじゃないのよ」
「え？」
　驚く朔哉に、美智子は更に驚く真実を告げる。
「あれね。コウの手作り」
「え？ええっ？！」
　驚いたあまり、防波堤から落ちかけた朔哉を見て、くすくすと笑うと、内緒よ、と美智子はいたずらっこのように微笑む。
「昔、コウに頼まれて、つい受けてしまってそのままなのよ。
残念ながら、料理も、掃除も、洗濯も、全部コウのが上手なの。
理想のお嫁さんは、だからコウのことなのよね」
　びっくりして、何も言えなくなっている朔哉に、美智子はでもね、と楽しそうに話す。
「でも、あたし、今頑張ってるの。
　頑張って、絶対にコウより料理が上手になるんだから。
　でもこれが、あたしの今の実力」
　手渡されたのは、小さな紙袋。
　中身を朔哉が尋ねる前に、美智子はぱっと防波堤から降りて言う。
「それじゃね。あ、このお菓子のことは、コウには内緒よ。
　いつかびっくりさせてやるんだから」
　手を大きく振りながら、バイバイと美智子は学校の方へと戻っていく。
　渡された紙袋を開けると、そこにはクッキーが入っていた。取り出して、食べてみると、少し硬くて、お世辞にもおいしいとは言えなかった。
　嵐のような人だ。
　その華奢で、一見弱々しくも思える背中を見つめて、朔哉は思う。
　その嵐に、自分も知らず知らずのうちに、巻き込まれてしまったと。



　司の謹慎が解ける前日、朔哉は俊平に誘われて、部活帰りに街に出ることにした。
「上沼女子とコンパの約束してんだよ。いいだろ？」
「けど、お前には宮尾っつー彼女がいるだろ？」
　俊平の彼女は、空手部で、並みの男よりも凛々しいと中等部の生徒から人気のある宮尾真琴というボーイッシュな女の子だった。
　それこそ、喧嘩をしたら、間違いなく俊平が負けるであろうことは、容易に想像がつく。
「それはそれ、これはこれよ」
　だが俊平はそういうと、渋る朔哉を無理やり電車に乗せる。電車には、サッカー部の佐伯も見え、朔哉は礼儀として小さく頭を下げたが、佐伯は、朔哉に気づかないのか、挨拶をすることもなく、うなだれている。
　そもそも、朔哉に嫌がらせをしていた相手だから、朔哉もそれ以上のことをする気にはなれなかった。
　朔哉の視線の先を追って、俊平が言う。
「ざまあねぇな、佐伯先輩。司に殴られて当然だぜ」
　微かに残る顔の痣は、まさしく司が殴った跡で、遠めにも痛々しいほどにわかった。一緒に電車に乗った同級生でサッカー部の田島が、そんな二人に嬉しそうに言う。
「知ってっか？昨日ふられたらしいよ、佐伯さん」
「どうしてまた？」
　とりあえず、というように朔哉が尋ねると、田島が声を潜めて言った。
「彼女に、他に好きな男ができたんだって」
「へぇ」
　俊平も、とりあえず話を合わせるようにそう返事をする。
「初めてできた彼女で、すっげー喜んでたのにな、佐伯さん」
　そういえば、佐伯がつい最近部室でその彼女の写真を自慢げに披露していたのを、朔哉は思い出した。押して押して、やっと落とした彼女だと聞いたことも。
　それなのに、他に好きなヤツできたなんていわれたら、そりゃショックだよな。
　少しばかり同情していると、電車が止まり、ドアが開く。
　そして、隣の車両のドアから乗ってきた女子高生に、田島が小さく声を上げた。
「げ、佐伯さんの彼女だ。修羅場になるかなぁ」
　残念ながら、朔哉たちの前方の車両で、佐伯は一人溜息をついてうなだれており、また佐伯の元彼女は、後方の車両から乗ってきたので、田島の期待するような修羅場は見れそうにない。
「っつーか別にかわいくもなんともねぇよなぁ」
「おい、俊平」
　あっけらかんと言った俊平をそう諭したところで、その彼女の腰に男の手が回るのが見え、三人は思わず色めきたった。
「あ、もしかして、新しい男？」
「その好きな男ってヤツ？」
　どきどきしながら三人は現れるであろう佐伯が振られる原因となった男の登場を待ち、ドアを見つめる。
　だが、次の瞬間。思わず揃えて驚嘆の声を上げた。
「司？！」
　彼女の腰に手を回し、にやついた顔で電車に乗り込んできたのは、紛れもなく謹慎中の司であった。



　それから一週間後。
　部活が終わって、部室に戻ってきた朔哉の隣で、俊平が半ば呆れたように司に尋ねた。
「お前さ、いったい何股かけてるわけ？」
「何が？」
「二組の片岡と、いちゃついてたろ？」
　にやつく俊平に、同じように司もにやにやと答える。
「まあな。って、何股ってそりゃひどくねぇか？一応、俺が『今』付き合ってるのはアイツだけだぜ」
知り合って一ヵ月半ほどであったが、司がモテるくせに、女癖が悪いことを朔哉は知っていた。
現に、たった一ヵ月半の間でも、つきあった女は、すでに四人を越えていた。
堪えかねたように田島が会話に加わった。
「じゃ、どうしたんだよ。佐伯さんの彼女」
　だが、司は、あっけらかんと答えた。
「とっくに別れた」
「げ？だって、一週間前、お前ら見かけたんだぜ」
　思わずそういった俊平に、司は悪びれることなく答える。
「三日で別れた」
「はやっ」
「だって、別にあんな女。好きでも何でもねぇんだもん」
　だったら何故、と言いそうになった朔哉は、はっと気づく。
「…お前まさか」
　朔哉が何を言いたいのか、気づいた司はむしろ堂々と言った。
「当然でしょ。暴力は禁止っていわれたからにゃ、他の方法取るしかねぇだろ？」
　簡単なことだ。
　佐伯への仕返しとして、最愛の彼女をいとも簡単に奪い、そしていとも簡単に捨てたのだ。
　結果は、明白だ。
　失恋で落ち込んだ佐伯は、以前のような虐めを続ける気力もなく、いまやただの亡霊と化している。
「…俺、お前だけは敵にまわさねぇよ」
　思わず田島がそう呟いた。



　この話を聞いたなら、大概の女性は、女を馬鹿にしてると怒ると思っていた朔哉の予想を裏切って、美智子はくすくすと笑いながらこう言った。
「まったく、司君も罪な男ね」
　絶句をしたのは、朔哉や俊平の方だ。
　練習後、光一を待つ美智子は、その待ち時間にこうして朔哉たちを捕まえて、いつしか話すようになっていた。
　罪な男といわれた司は、にやりと微笑んでポーズをとる。
「つーか、むしろいい男？だから、もてるってわけ」
　呆れた俊平がぽかっと司の頭を殴ったが、美智子はその様子を見て更に笑い声を上げる。
「面白い、ね。朔哉君」
「はぁ」
　面白いのは、お互い様じゃないかと思いつつも、朔哉はあえてコメントを避ける。
　美智子はそんな朔哉を無視して、一応年長者らしく司に言った。
「でも、女の子をやたらに傷つけちゃだめよ」
　チッチッチ、と指を左右にふり、司はそんな美智子に反論する。
「甘いな、美智子さん。俺はね、彼女にひと時の夢を与えてあげたんだぜ？最高に甘い夢。
むしろ感謝されるべきだろ？これは。悪いけど、結構、奉仕したんだからな」
　ついには自慢げにそう言った司に、俊平は溜息をつく。
「まったく」
　いつか絶対に、女で苦労するだろうな、こいつは。
　朔哉もそう思い、同時に溜息をついた。
　くすくす笑っていた美智子は、そんな朔哉たちの姿を見て、すこしほっとしたように言った。
「でも、よかった。ふっきれたみたいね。二人とも」
　え？と朔哉と司が顔を合わせると、美智子は大人びた笑顔を見せて、
「三人とも、頑張ってね。サッカー」
と言い残し、グランドを出て行った。
　こうしてまた嵐を起こす。
　大人なんだか、子供なんだか、まったくもってわからない人。
　だけど。
　もっと近づきたい。
　朔哉は確かにそう感じていた。
　じっと美智子の後姿を見ている朔哉に、隣の俊平が声をかける。
「どうかした？朔哉」
「…なんでもない」
　動き出した胸の高鳴りを、隠すようにそう言って、朔哉は足元のボールを蹴り上げる。
「朔哉」
　だが俊平は、自分に背を向けた朔哉にそれでも声をかけ、無反応なのをいいことに、はっきりと言った。
「お前、馬鹿だな。叶わない恋をすることなんかないだろ」
　言い当てられた動揺から、思わずボールがグランドへと転がる。
　そんなことない、とは朔哉にはいえなかった。
　それほどまでに、美智子への恋は、もう始まっていた。
「関係ない」
　精一杯努力してそういうと、朔哉は転がったボールを追いかけて、そのままグランドを走り出した。



　もう恋はしない。
　確かに、そう誓った。
　でも、そう考えたのが、間違いだった。
　
　だって恋は、自分の思い通りになるはずもない。
　恋する時は、そういう時なのだから。
　どうしようも、できないもの。


　美智さんには、コウさんという恋人がいて。
　そして、俺はコウさんを誰よりも尊敬している。
　言われたとおり、叶わない恋。


　それでも、恋をやめることはできない。
相手がどんな人であろうとも。
それで、自分がどんなに傷つこうとも。

　それが、恋。