男の人の最初にどこに目がいくかと言えば、手元だ。
　ごつごつして骨ばっている手が好き。
　欲を言えば、そこにごつめの時計があるとなおよし。
　女みたいな華奢な手で、キラキラ光ってる高級時計なんかされたら、顔がどんなに最高でも、私の中での評価は最低だ。

　そう言う意味で、橋爪圭祐は合格だった。
　有名ブランドじゃないけど、感じのいい腕時計も、高評価。

　だけど今、その時計が私の恋の行く手を、阻んでいる。


　新しく任された会社の部署を横断するプロジェクトで、彼と初めて出会った。
　営業畑の私とは、きっとこんなプロジェクトがなかったら同じ会社でも出会わなかったであろう研究職。
　最初に見たのはもちろん手元。
　銀縁の細いフレームの眼鏡も、一度だけ着替える時間がなかったとかでやってきた白衣姿もよかったし、寡黙だけどたまに言う的を得た会議での発言とか、プロジェクト会議の度に気にいるポイントは増えていった。
　プロジェクトが無事終わった時、もう会えなくなるのは寂しいなと思っていたら、偶然入った喫茶店ではち合わせた。彼はコーヒーに目がなくて、ここのエスプレッソがお気に入りなんだそうだ。ええい女は度胸だと、勢い込んで美味しいエスプレッソで有名なイタリアンのお店の話をしたら、思いのほか乗ってくれて、とんとん拍子に食事に行くことが決まった。

　メインディッシュも終えて、あとはデザートと頼んだエスプレッソが出てくるのを待つのみ。
　食事は、評判通りに美味しかった。
　会話も楽しかった。
　なのに、私はさっきからイライラしてる。
　それは、彼がちらちらと時計を見るようになったからだ。

　その頻度が半端ない。
　私の言葉に、何か答えては、見る。
　水を飲んでは、見る。
　ちらりと、ごく自然に。
　でも、確実に気持ちは時計に向いている。

　累計三十回が私の限度だったらしい。

　三十一回目、彼が時計を見た時に、私はナプキンで口を拭うと、それを畳んでテーブルに置いた。

「帰ります」
「え？」
「ああ、橋爪さんは、エスプレッソまで楽しんでください。一番楽しみにしてたし」
「倉野さんだって、デザートのティラミス楽しみにしてたじゃないですか」
「橋爪さんにあげます。それじゃ」
　呆気に取られている彼と、テーブルに一万円を置いて、私は店を出る。
　私にだって、ちっぽけだけどプライドはある。
　デートしてるんだったら、その間だけは私のことを見てほしい。
　いや、むしろそうすべきだ。
　カツカツと派手にハイヒールの音を鳴らしながら歩いていると、「倉野さんっ」と後ろから声がした。
　追いかけてくる男気はあったんだとは思うけど、足を止める気にもならない。
　そのままカツカツ歩いていると、ぐいっと腕を掴まれた。
「ちょっと待って」
「待ちません」
「すみません、僕、倉野さんの何か気に障るようなこと、言いましたか？」
　言った言わないじゃないんだよ、と思いながらも私は答える。
「この後予定があるんでしょう？だったら、さっさとそっち行って。
　ちらちら時計見られたら、こっちだって気になって仕方ないし」
　敬語が消えたのは気持ちが苛立っているせい。
　でも彼はそんな私に気付かずに、時計？と声を上げて自分の右手の時計を見る。
　こういう天然っぽいところ、かわいいとも思ったけど、今はかわいさ余って憎さ百倍。
「これ見よがしに時計見るって、私と一緒に居る時間がつまらないか、次の予定が気になってるかのどっちかでしょう？」
　思いがけず大きな声が出て、街行く人にちらりと見られた。
　ここで恥ずかしいとしおらしく謝れれば、まだ可愛げのある女ってことになるかもしれないけど、会社じゃ先輩たちからファイターの称号を得ている私には無理だ。
「とにかく、さよならっ」
　我ながらセンスのない捨て台詞だと思ったけど、これ以上話すこともっとひどいことを言ってしまいそうで、私は掴まれていた手を振り払った。
　だけど、大股で一歩踏み出そうとした私の腕を、彼が「待って」と力強く引き寄せた。
「別に次の予定があるんじゃないんだけど、ごめん。そんな風に思ってたなんて気付かなくて―」
「謝らなくていいから、放してよ」
「話を最後まで聞いてくれたら放します！」
　思いがけず反撃を受け、私は口を閉ざす。
　その隙にと、彼は小さく息を吐くと、説明を始めた。
「実は一昨日、コンビニに行く途中に子猫を拾って」
「子猫ぉ？」
「ぐったりしてたので、病院に連れてったら、直腸脱とかいう病気で」
「直腸脱？何それ」
　思わずそう言うと、じろりと彼が私を睨んだ。
「すみませんが、少し黙って僕の話を聞いてくれませんか？会議の時も、鈴木部長によく言われてたでしょう、倉野さん」
　痛いところを突かれた。
　ごめんなさいと肩をすくめると、彼は話を続けた。
「直腸脱ってのは、腸の一部が肛門から出てきちゃうことなんです。とりあえずは中に入れて助かったんですけど、先生からはまた数日後に起きるかもしれないから気をつけてくれと言われて、気になってたんです。一人暮らしだし、また直腸脱になってたらどうしようかって心配で。
　だから、ちらちら時計見てて。すみませんでした。話は、以上です」
　そう言って彼は深々と頭を下げる。
「せっかくのエスプレッソも飲めなくてすみません」
「私は別に…」
　私は、エスプレッソを餌に彼を釣ろうとしただけだ。
　気まずくなって顔を俯かせる私に、彼があっと声を上げた。
「倉野さん、今からウチ来ませんか？」
「はい？」
「ウチ、エスプレッソマシーンあるんです。僕が入れたエスプレッソもなかなかうまいんですよ。
　そうすればにゃーの様子も見れるし、一件落着！」
「にゃー？」
「子猫の名前です。まだ仮だけど。じゃ、善は急げで」
「え？ちょっと」
　彼は私の手を掴んだまま、通りかかったタクシーを止めると、私を先に入れ、押し込むように自分も後から乗りこんだ。

　そういえば、会議の時もそうだった。
　目立たないくせに、指摘するとことは指摘し、締める時は締め、さりげなく自分の方向へと持って行く。
　一見天然の感じがするけど、意外と策士かもと思ったのも、彼の高ポイントだったと思いだした時には、私は彼の部屋で彼のいれたエスプレッソを飲んでいた。
「…美味しい」
　今日のお店のエスプレッソがどれほどの味かはわからないけど、彼のエスプレッソもなかなかの味だ。
　思わず呟いた私の声に、猫を抱きかかえていた彼が、満面の笑みで話しかけてくる。
「でしょう？」
　拾った猫は、彼の胸の中で満足そうににゃーと鳴く。彼は口元に微笑みを残しながら、猫を床へと降ろすと、空になった私のカップを取り上げて、お代わりを注いでくれる。
「そろそろ終電の時間ですね」
　言われて気付くとその通りだった。
　終電ギリギリの時間の一人暮らしの男の部屋に上がり込んでいるいい年した女。
　これって、つまりはそういうこと？
　いやまって。
　一応勝負下着ではいるけど、気持ちがそこまで追いついていないし。
　確かに連れてきたのは彼だけど、無理やりにでも帰らなかったのは私だし。
　自分が押すのはいいくせに、押されると弱い私。
　答えに困っている私を知ってか知らずか、彼は背中を私に向けたままで、淡々と語る。
「今日のところは帰します。でも、次は帰さないつもりなので、よろしくお願いします」
「あ、はい。え？」
　少しだけほっとして答えた後ではたと気付く。
　それは次があるってことなのだろうか。
　しかも帰さないって？！
　急に跳ねあがった鼓動は、振り返って私を見つめる彼に気付くと更に早くなっていく。
「多分そう近くないうちに来ることになると思いますよ。僕のいれるエスプレッソは中毒性があるから」
　自分のエスプレッソをゆっくり飲んで、彼は微笑みながらそう言った。