何で、彼女はこんなにも俺の心を掻き乱すのだろうか。





「朔くん、おはよう」

にっこりと微笑む彼女の柔らかな笑顔を見ると、まるで心の奥底にある自分の中のささくれた部分が綺麗に剥ぎ取られるような錯覚さえ起きる。

こんなにも、彼女に翻弄されている事に、誰にも気がつかれないように、俺は細心の注意を払っていつもの仮面をかぶるのだ。

「おはよう、山田さん」

負けじと微笑みながらそう告げると、僅かに彼女の頬が赤く染まる。それは俺に対する恋心がそうさせているのではない。単に見つめられる事になれていない彼女ならではの照れなのだ。

それに気がついた時、へこんだっけな。

彼女……山田さんの本当の笑顔を見つけた時、それはすぐに分かった。

一哉と一緒に居る時の彼女の笑顔。それは本人にはきっと分からないであろう相手への愛情の深さがありありと浮かび上がっている。

諦めようと、何度心の奥で決心しても、こうして毎朝の挨拶を交わすだけで胸がざわつく自分自身に呆れてしまう。

自分はこんなにも諦めの悪い男だったのだ。と、改めて思い知らされる日々が続いていた。







夏休みに入る直前、クラスの仲間で夏休み中にバーベキューをやろうかという提案があった。

正直、俺や一哉は毎日部活があるし断ろうとしていのだが、何故かクラスメイトの殆どが参加することになり、仕方がなく部活が午後からの日に日にちを指定してもらって参加する事になった。

だいたい、クラスの仲間なんて大して仲が良い訳じゃない。けれど、山田さんが行くとなれば一哉も来る訳で。一哉が来るとなると、クラスの殆どの女子は参加する事になる。そうなると必然的に男子も殆どが参加。俺も……夏休み中に一度くらい、顔が見たかった。



俺のこの気持ちは、一哉に対する裏切りなんだろうか。

ただ、顔が見れれば良い。それ以上なんて……望んでない。付き合っている二人の仲を、壊したいなんて、そんな事考えている訳じゃないんだ。何度もそう言い聞かせて、心の奥底の自分でも手をつけたくない部分には目を逸らし、覆い隠していた。







バーベキューの当日。

バスケ部と陸上部のメンバー以外は、午前中からセッティングや買出しに出ていた。俺達部活組がバーベキューの会場に着くと、まだ火もおこしていない状態で、皆飲み物だけ持ち騒いでいる。

「何だよ、まだ全然用意もしてねえのかよー」

一哉が文句をつけながらもバーベキューセットを持っていたメンバーの中に割って入っていく。何故か慣れた様子でテキパキと墨に火をつけ始めた。

本当に、万能人間だな。くすりと苦笑しながらも、俺の目は一人の少女を探した。

けれど、山田さんの姿はない。

このバーベキュー会場は、都内にはあるものの、まるで田舎に来たかのような森林と緑の茂った会場だ。どうやらクラスメイトの親が紹介してくれたらしい。

買出しには、それでも歩いて１５分程かかる。どうやら彼女は、買出しに駆り出されているようだった。

「あれ、みいは？」

「花火も買いたいから、先に行ってって言われたんだけど…遅すぎるよね。まさか、こんな所で迷子になんてなってないと思うけど。」

「まさかな」

一哉は、山田さんと一緒に買出しに行った平川さんと話している。まさか…、いや、あり得ないな。いくら何でも、こんな人工的な森で迷子なんて。

そう思ったけれど、じわりと不安が胸に広がっていく。

一哉が「俺、ちょっと行ってくる」と駆け出そうとしていた時、火をつけていたメンバーが彼を呼び止めた。

「ちょっとまった、これ火消えてるよ…一哉！頼むよーー！」

「いや、でも…」

迷っている一哉に、俺は。自分でも思ってもみない言葉を吐いていた。

「俺が…見てくるよ。まさか迷子は無いと思うけど、何かあったようならすぐ電話するから」

そう出た自分の声の響きが、なんだかしらじらしく思えて、思わず目を逸らしながらしゃべっていた。

一瞬見えた一哉の目が、僅かに見開いたように見えたのは気のせいだろうか？







会場から歩いて、僅か５分もかからない道端に、山田さんは座っていた。

あまりにもすぐ側に居た事に驚いたが、慌てふためいて会場を後にし、すぐに駆け出してしまったさっきまでの自分に苦笑する。

「山田さん」

山田さんは頬を赤く染めておでこの辺りに僅かに汗を掻いているようだった。ハンカチでそれを拭っている。俺の声に気がつくと、いつものようににっこりと目を細めて微笑んだ。

「朔くん、来てたんだ。でも、どうしたの？ 」

「いや…山田さんが買出しから帰ってこないって、平川さんや一哉が心配してたから、見に来たんだ」

まさか、迷子になってたのではないか？と危惧していたとは言えずにそう告げて目を逸らす。心臓が、やたら苦しかった。

「や、やだ。迷子になったとでも思ったの？今ね、ちょっとだけサボってたの。だって、買い物おしつけるんだもん、それ位いいでしょ？」

おどけながらそう言う彼女の側に、ゆっくりと歩み寄った。

「みんな、飲み物ばっかり飲んじゃって。誰も率先して火を起す人居ないんだよ？ホント、やる気ないよね。あ。見て、朔くん。花火、こんなに買っちゃった。もう重たくて……」

どっさりと、袋の中に納まりきらないほどの花火を俺に見せて笑みを深める彼女。今日はずいぶんと饒舌だ。こうして皆でやるイベントが楽しいのか。それとも、一哉と会うのが楽しみだからか。

ふと、自分の中にある違和感に気がつく。

―　会わせたく、ない。

このまま、一哉に会わせずに。手を引いて連れ去ってしまえたら。

「朔……くん？どうしたの」

山田さんの目の前に立っていた俺は、きょとんと見上げてくる山田さんの前にしゃがみこんだ。手を伸ばすと、僅かに怯えたような表情を浮かべる。でも頬は、さくら色に染まったままだった。

俺はそのさくら色に手を伸ばす。

けれど、直前でぎゅっと拳をつくり、山田さんの頭の上に乗っていた小さな葉っぱを手にして彼女の顔の前に差し出した。

怯える表情から、一転照れたような笑みを浮かべる彼女。

「や、やだ…。ありがとう」

慌てたように立ち上がる。蒸気した頬を隠すように両手で顔を覆い隠した。

もしも、触れてしまったら。抑える術はない。届きそうで届かない。近いのに、果てしなく遠い距離が、俺を更に苦しめる。

自分から、手放して譲った恋。今更何ができるというのか。一哉を裏切る事だって、出来やしないくせに。

でも…。こんなに狂おしいのなら、いっそのこと……。

「……逃げちゃおうか？」

二人で。

ポツリと呟く俺に、山田さんは弾かれたようにこちらを見つめた。聞こえるか聞こえないかくらいの声。いやきっと、聞こえていないだろう。

「みいっ！！！」

その時、汗だくの一哉が俺達のいる場所に飛び込んできた。その目は、不安と…安堵の色が入り混じっていた。

「一哉まで。どうしたの？」

「どうしたの？じゃねえよ！馬鹿。心配すんだろーが。」

「あは、ゴメン」

「ゴメン、じゃねえ。ったく、行くぞ」

その時。俺は見てしまった。いや、とっくに知っていたんだけれど。山田さんの……喜悦とさえ言えるほどの、笑顔。

眩暈がした。そして激しい後悔。俺は…とっくに諦めなければいけないのに何をやっているんだ。もしも、一哉が来るのがもう少し後だったら……それを考えてまた苦く笑った。

一哉が来るのがもう少し後だったとしても…何も変わらない。

彼女の気持ちは、すでに一哉にあるのだから。そして、そう仕向けたのも、自分なのだから。

「朔くん、行こう」

声さえも柔らかな彼女に呼ばれて、俺も歩き出す。山田さんのさくら色には届かなかったけれど、いつか、俺も触れることが出来るのだろうか。誰かに、あんな顔をさせることが出来るのだろうか。

未来は、果てしなく遠い。

けれど、少しずつ、前に進む事くらいなら、俺にも出来る。

「朔、サンキュな」

にっ、と笑う一哉に、俺はこれまでに無い程の悪戯な笑みを向け「いーえ」と呟いた。





END