THE FLOWER GARDEN
「万寿菊」
その頃水仙組の副隊長である相川は、その領地の中心に位置する水仙の泉の前で、心地よく流れる水音を聞きながら、うとうとと眠りかけていた。
あたたかな陽射しが、お転婆な水仙組の姫の護衛係として、日々心労が耐えない相川をそっと癒す。
が、そこに相川の眠りを邪魔する声が響いた。
「しずか様〜」
相川と同じく、日々心労の耐えない姫の世話役である君江だ。
それまでの重い体も忘れ起き上がると、相川は姫の名を呼びながら、左右をキョロキョロと見回している君江に声をかけた。
「どうした？君江」
君江は相川の顔を見ると、いくらか安心した表情を見せた後で、大きくため息をついた。
「またしずか様のお姿が見えないんですよ。そろそろ日向様がお戻りになるというのに。この水仙の領地をお出にはなっていないと思うのですが、お一人で、どちらに行かれたのかもわからなくて…」
ため息をつく相川の後方から、君江の声を聞きつけて慌てて現れた石崎が、相川の言葉を無視して大袈裟なほどに頭を抱えて言う。
「なんと！この私が、あれほど、隊長が戻られる際には、扉の前できちんと出迎えるよう申し伝えているというのに…」
石崎がいつも言っているのは、当のしずかではなく、君江や自分、もしくは下級騎士相手だということを知っている相川は、石崎を無視して、項垂れる君江に優しく言う。
「私も探そう」
「ありがとうございます」
すると、石崎も、開きかけていた口を一旦閉ざし、咳払いをして答えた。
「…隊長に怒られるのは、私たちだしな」
結局、相川たちは三人で水仙の泉の周辺で、しずかを捜し始めることになった。
「しずか様っ」
「姫―っっ」
「しずかさまー。あれ？」
相川は、水仙の館である黄仙館脇に聳え立つ、大きな木の下で上を見上げたところで思わず声をあげる。すると、
「相川様、どうかされましたか？」
と君江が聞き返す。相川は、それに木の上を指差して小声で答えた。
「あそこだ」
慌てて駆けつけた君江が、相川と同じように見上げて思わず声をあげる。
「なんとまあ」
地上数メートルのところ、木々に寄りかかるようにして、しずかは穏やかに目を閉じている。
「ひっ、ひめ―」
思わず叫びそうになる石崎に、相川は黙るようにと目で制す。
「静かに。
姫はどうやら寝ておられるようだ。下手に起こしてバランスを崩せば、下に落ちて怪我をするかもしれない」
「ではどうしたら？」
顔を顰める石崎に、何も知らない君江が言う。
「どなたかお登りになって起こされてはどうでしょう？石崎様」
「いやいやっ、こういうことはわたしは。相川の方が得意だろう」
実のところ、石崎は高いところが苦手なのだ。
かつて馬から落ちたことがトラウマだという噂が、騎士の間では実しやかに流れている。否、噂ではなく真実なのか、事実石崎は先ほどから頭上で眠るしずかを見上げることすらしない。
話をふられた相川も、顔を顰めて答える。
「しかし、しずか様は、下手に起こすとご機嫌を損ねます…」
実際、眠っているしずかを、何度も起こしたことのある相川は、その度に、顔を、腹を、殴られたことがある。
君江とて、木の上になど上ったことはない。
木の下、三人でため息をついていると、ふいに低い声が庭に響いた。
「どうした？」
思わず三人は振り返り、それぞれにその名を呼ぶ。
「日向様っ」
「隊長っ」
しかし、三人とも頭上で眠るしずかに気づき、慌てて口を塞ぐと、無言で頭上を見つめる。その視線に気づいた日向は顔をあげると、そこで思わず眉をひそめる。
「しずか、か」
「はあ。どうやら熟睡なさっているようでして…」
「下手に起こしてしまうのも、落ちてしまわれるかと…」
相川と石崎がそう答えると、ふぅと息を吐き、日向は腰に携えた剣を石崎に投げて渡した。
「仕方ない、俺が行く。石崎、頼んだぞ」
石崎は慌てて剣を受け取る。
「はっ、はい」
そういうと、日向は軽々と木を上り始めた、呆気なくしずかのいる所までたどり着くと、そのまましずかを抱き上げて、颯爽と地に下り立った。
呆けている三人の前で、日向はため息混じりに答える。
「これだけ動かしているというのに、目を覚ます気配すらない。どうやら本気で寝入っているらしい」
日向は独り言のようにそう呟くと、踵を返した。
「隊長？」
剣を宝物のように大袈裟に手にしたままの石崎が慌てて呼びかけると、日向は肩越しに答えた。
「寝室に連れて行くしかないだろう」
そういって、日向は一瞬、しずかの顔を見つめると、小さく息を吐く。
「はあ」
その姿に、思わず君江がため息を漏らした。
「どうした、君江」
「隊長としずか様、ああしてみると、本当に絵に描いたような美男美女だなと思いまして」
「確かに」
素直に頷く相川の隣で、石崎も口を開いた。
「どちらも口を開けば、品のない言葉を、無茶苦茶なことをおっしゃるからな」
「「本当に」」
すると、急に黄仙館に向って歩き出していた日向が振り返って叫ぶ。
「石崎っ。何してるっ」
「はっはいっ」
慌てて走り出した石崎の背中を見つめながら、相川が思わず呟いた。
「…意外と、お二人とも、お似合だなあ」
すると君江が心外だというように答える。
「気づくのが遅いですよ、相川様。
この君江は、初めからそう思ってましたから」
そうしてうっとりとした表情を浮かべる。だがすぐに、その表情を曇らせて、君江はぽつりと呟いた。
「…願っているわけではないですが、仮にしずか様がお妃に選ばれなかったとしても、このままずっと日向さまのお側で、水仙に姫とししていらしていただけたら―」
「君江」
諭すようにそう言った相川に、君江もわかっているのだとその声を遮って、話を続けた。
「もちろん、もしも、ですよ。もしも。
私とて、妃に選ばれることが、しずか様にとっても、この水仙組にとっても、どれほど光栄なことかはわかっているつもりです。しかも、他の組の姫様たちも、いずれも見目麗しく、すばらしい方々。その方々を差し置いて妃になるということは、とても大変なことです。しずか様は、確かに姫様らしからぬところも多少ありますが、それでも、素晴らしい方ですから、きっと乗り越え、王妃になられると信じております。
ですが、もしそうなれば、私のような下々のものには、二度とお会いすることもなくなると思うと…」
「君江…」
項垂れた君江の肩を、相川がそっと抱く。君江は顔を拭うと気丈に答えた。
「すみません。水仙組に仕える立場でありながら、我侭なことを」
頭を下げる君江だが、相川も力なく首を振った。
「いや実は私も、不謹慎だがたまにそう思わぬこともないのだ」
どうしようもなくお転婆で、
乱暴で、
口が悪く、
おおよそ姫というよりは騎士の方が似合うものの、
共にいれば心地よく、何やら心が強くなる気がしてくる。
何かを強く信じていける気持ちになれる。
我が姫君は、そういうお人だ。
何にも捕らわれない、自由がある。
いや、だからこそ、かもしれない。
自由な渡り鳥のように、今はしずかを引き止める存在があるから、ここにいるだけで、
相川にはそれが無くなってしまえば、しずかはここにいないのではないか、という気がしてならないのだ。
「君江」
相川がそう呼びかけると、君江は小さくはい、と答える。
「結果がどうなったとしても、しずか様の選ぶ道に、私は付き従っていこうと思う」
このままここにいることになろうとも、
二度と会えなくなってしまっても。
おそらくそれが、しずか様も望んでいることだろうから。
「…変わられましたね、相川様」
思いがけない君江の言葉に、え？と言葉を詰まらせると、小さくだが力強い声が返ってきた。
「以前は、隊長と、騎士たちの間に挟まれて、立ち往生してばかりだったのに。
今は、きちんと自分の進むべき道を見据えていらっしゃる」
「それは…」
しずか様のお陰だ。
そう言おうかとも思ったが、君江には言わなくともわかっている気がした。
自分と同じく、君江も以前のように、ひたすら日向の言うことに付き従うというより、自分の考えを持ち、そうして一人で立っている。
すべて、貴女のおかげなのです。しずか様。
そう思いながら遠い空に視線を馳せる相川の足元には、どこから舞い込んできたのか、マリーゴールドの橙色の花が咲き始めていた。