THE FLOWER GARDEN
「鬱金香」
突き刺すような日差しを感じ、しずかはゆっくりと目を開けた。
カーテン越しに高く昇った太陽の光が、自分の頬に強く照らしつけている。
朝と言うより昼に近いのだろう。太陽の高さも、光の強さも、早く起きるようしずかを急かしているような気がした。
大きく伸びをして、上半身を起こす。
窓の方を見ると、小さなテーブルにチューリップが一輪飾られていた。
小さいホテルなのに、気を使ってるんだな。
しずかが自然と笑みをこぼしていると、ふと隣で何かが動く気配がして、しずかは大きく欠伸をしながら顔を向けたところで、そのまま口を閉じることなく、自分の眼に映ったものを凝視した。
骨と筋肉で引き締まったその肩と背が、そのままゆっくりと寝返りを打ち、しずかの方に顔を向ける。
無防備なその寝顔は、まるで少年のように幼いのに、体つきはきちんとした大人だった。
日向…。
いくつか見える傷は、共に戦場を駆け抜けた時にできたものだ。
途中見つかって追いかけてくる敵から逃れるのは容易ではなかったけれど、しずかの窮地には日向が、日向の窮地にはしずかが、助け、二人は無事外の世界に抜け出すことができたのだ。
海にも、昨日出ることができた。母親の遺灰を海に撒き、しずかの目的はすでに終えていた。
しずかはそっと隣で眠る日向の顔を見つめた。
こいつは、これからどうするんだろうか。
海まで一緒に付いてきてくれたのが、日向の優しさであることは十分しずかも理解していた。実際に、日向がいなければ、ここまでこれなかっただろうし、このホテルにも泊まれなかったと思う。
親のところに戻るのだろうか。
しずかは道木から聞いた日向の家庭事情を思い出す。父親はいないが、母親はきっとどこかで優雅に暮らしているはずだ。
戻るところのある日向とは反対に、自分には戻る場所などなかった。
そう思うと、少しだけ心が重くなる。
ふいに日向がさらに寝返りをうち、しずかは触れそうになる日向の体から慌てて逃げるようにとベッドの端に体を移す。
その瞬間、日向の体を包んでいたシーツがめくれ、裸の腰が見えた。
え？
何も着てないのかよ？
そう思った瞬間、しずかの体は宙に浮いた。そして、大きな音とともに床に落ちた。
「いててて…」
体を起こしながら強く打ちつけた腰をさすっていると、ベッドでうつぶせになって眠っていた日向が目を覚まして、しずかの方を凝視している。
まだ寝起きだからなのか、どこか焦点の定まっていないような目をしていた。
その様子にムッとして、思わずしずかは立ち上がって怒鳴りつけた。
「何だよ、何で同じベッドに寝てるんだよっ！」
すると日向は大きく伸びをしながら、上半身を起こした。
「ベッドが一つしかないからだろう。それにホテルはこの部屋しか空いてなかった」
昨日の記憶は定かではないが、確か疲れ切ったしずかが着替えもせずに先にベッドにもぐりこんだような気がする。当然、その後の日向の行動は知らない。
状況からして、日向はしずかと同じベッドに入ったのだろう。
「けどっ、床で寝るとかっ」
起きて早々しずかのどなり声に日向は顔をしかめると、再び大きな欠伸をして答えた。
「俺がか？どうして？お前の為に？フェアな関係だと言ったのは、お前だろう」
「そうっ、だけどっ…」
日向がゆっくりと膝を立てる。かろうじて体にかぶさっていたシーツが、するすると落ちていくのが見え、しずかは慌てて日向に背を向けた。
「じゃ、せめてなにか着て寝ろよっ」
慌てているしずかとは違い、日向は特に何も気にしていないようだ。背後で日向が起き上がるのがわかる。
「いつもと同じ恰好で寝ただけだ。着ろと言われれば、着るが―」
どうやら昨日自分が脱いだ服を探しているようなのだが、見つからないのか、足音が静まり返った部屋に響く。
しずかは仕方なく、目の前の椅子に掛けられていたバスタオルを、後ろに投げつけた。
「これでも巻いてろっ」
十分に時間をおいてしずかがそっと振り返ると、腰にタオルを巻きつけた姿で、日向がベッドに腰かけていた。そしてしずかに気づくと、にやりと笑った。
その足元には、日向の服が落ちている。
しずかの慌てように気づきながらも、服が見つからないふりをしていただけなのだと気づき、しずかは日向の正面に仁王立ちすると、おい、と声をかけた。
「お前からかってるのか、あたしのこと」
「そうじゃない」
「じゃあなんだよ」
「お前がいると、毎日に張りがあって楽しいから笑っただけだ」
日向はそういうと、にっこりとほほ笑んだ。
その少年のような笑顔と、その下で組んでいるたくましい腕を見たしずかは顔を赤らめると横を向いた。
「ふんっ」
くすりという笑い声がして、日向はベッドから起き上がるとしずかの前を通り過ぎ、窓辺へと向かい、太陽の陽を体に受けながら言った。
「少なくとも、女とひとつのベッドに眠りながら何もなかったのは、お前だけだ」
「へぇ手が早いことで」
茶化したようにそういうしずかに、日向はさらりと答える。
「俺が手を出さなくても、向こうから手を出してくる」
「…あっそ」
ちらりと視線を日向の方にやると、見事に鍛え上げられた背中が見える。だが、その肌は滑らかで、上質の布のように光沢さえあるように思える。
その体を見ていると、確かに触れたくなる気持ちはわからないでもなかった。
思わずしずかが手を伸ばしそうになったところで、日向が真面目くさった声で言った。
「だからお前は、無防備に俺の隣で眠らない方がいい」
「え」
慌ててしずかはその手を止める。すると、日向がくるりと振り返って茶化したように言った。
「お前に襲われちゃかなわんからな」
にやりと笑うその顔を見て、思わずしずかは手を振り上げて、日向に向かって行った。
「なんだとーっ」
気づいた日向は笑うのをやめると、自分に振りおろそうとしたしずかの腕を掴んだ。
「っやめろっ、しずか」
「結局からかってんじゃねぇかよっ」
日向に掴まれた右手を振り払おうとしたけれど、しっかりと掴まれて動けそうにない。
しずかは諦めて今度は左手で日向を殴ろうとした。が、それも日向に掴まれる。
「離せよっ」
そう叫んでじたばたすると、流石の日向も抑え込むことができなくなったのか、しずかの手がふっと軽くなった。だが、それは予想外のことで、その勢いにバランスを失ったしずかは思わず後ろへ倒れそうになる。
「わっ」
だが倒れそうになるしずかの体は、次の瞬間強く日向の胸に引き寄せられていた。
触れたいと思った体に、自分の体が触れていることに気づき、しずかは顔を真っ赤にしながら叫ぶ。
「なっ、離せよっ」
じたばたと動こうとするしずかだが、日向にきつく抱きしめられていて、見動きが全くできない。
力の強さ、体格の違い。それは、どう鍛錬を重ねても追い越せない、男と女の違いだ。
そういったものをはっきりと見せつけられ、しずかは諦めると、大人しくもがくのを止めた。
耳元で小さなため息がして、日向が呟いた。
「どうしてもというのなら、離してもいいが、そうしたら…見えるぞ」
そういえば、さっきから足にタオルのようなものがまとわりついている。思わず下を見そうになったしずかは、日向の言葉を思い出して慌てて顔を戻した。
どうやら日向が腰に巻きつけたタオルは、一連のもみ合いの中で、取れてしまったようだ。
「…けど、このままじゃ、一生離れられなくねぇ？」
はっと気づいたしずかに、日向はにやりと笑って答えた。
「その通り」
「その通り、じゃねぇだろっっ」
しずかは思い切りそう怒鳴ると、目をつぶって、どんと日向の胸を突いた。体が離れた瞬間、しずかはくるりと日向に背を向けると、目を見開いて、荒くなった呼吸を鎮める。それでも頬はまだ熱を帯びていた。
畜生。
結局からかわれた。
絶対いつか、仕返ししてやんだからなっ。
だがそう思った瞬間、日向と顔を合わせるのも今日が最後なのかもしれないことをしずかは思い出した。
何だかんだと言っても、日向はいつもしずかの傍にいた。
その日向がいなくなり、そして自分は一人になる。
考えるだけでも、心に大きな穴が開いたような気持ちになる。
引き留めたいとは思うものの、日向が自分の傍にいるべき理由も義理もないことにしずかは気づいた。
すると、日向が口を開いた。
「でも俺は、一生お前から離れないつもりだから」
「え」
顔をあげ思わず振り返ると、タオルを腰に巻いた日向が、チューリップの花を持ち、太陽の光を背に自分に微笑みかけていた。
「人生は長い。どうせなら、張りのある毎日の方が楽しい」
鬱金香：チューリップの和名。花言葉は、永遠の愛。