THE FLOWER GARDEN
「月夜」
静まりかえったなかで、水の流れる音がしとしとと響いていた。
水仙の泉を前にして、しずかは座りこみ、水面に映し出された満月を眺めていた。
眠れずにいたしずかは、どこへともなく黄仙館を抜け出し、歩き回って、こうして水仙の泉にたどり着いたのだった。
どうして、雅。
突然目の前に姿を現したかと思うと、雅はしずかを非難した。
どうして。
そして拒絶し、さらに、しずかにライバル宣言をしたのだ。
どうして…。
風が強く吹き、しずかは空を見上げる。黒い雲が、満月を覆いはじめていた。
一瞬にして、月明かりに照らされていた水仙たちが、暗闇に消えていく。
ぽつり、と水滴が一粒、しずかの頬にかかる。それが、泉の水か、雨なのかをしずかが考える前に、本当の雨が降り出した。
泉には、いくつもの波紋ができて月は消えてしまっていた。だが、しずかはそれを見つめながらも立ちあがる気にはなれずにいた。
あんな場所になんか、戻りたくない。
いっそのこと、この学園を…。
ふいに温かい手が、しずかの肩におかれて、しずかは思いきり振り向いた。
「あ…」
柔らかく微笑んだ、その相手に、しずかは思わず声をつまらせ、慌てて立ちあがった。
桜小路、有世…。
紫紺の制服を着て、有世は立っていた。暗闇の中でさえ、その薄い色の髪が光を放つように輝いている。そして、その奥にあるアーモンド型をしたブルーグレーの瞳が、しずかを心配そうに見つめていた。
「このままでは、風邪を引いてしまう。さあ」
そしてそう言うと、しずかの手を取り、颯爽と走り始めた。
「あっ…、え」
しずかは黄仙館には戻りたくないと言おうとしたが、有世はその風貌に反して、強引にしずかを引っ張り、早足で歩く。
「ちょ…」
雨が強くなってきた。
黄仙館の屋根が見えたところで、しずかは思わずその腕を振り払った。
驚いた有世が、しずかと同じく足を止める。二人の吐く息が、雨の中で靄のように白く色づいた。しばし二人は視線を交える。
すると、有世は突然着ていた制服を脱ぐと、しずかにかけた。
「…え？」
その答えをしずかは求めたが、無言のまま笑顔を向け、そして再びしずかの手を取って、有世は駆出した。その方向は、黄仙館とは正反対だった。
「どこ…、行くんだ？」
ようやくしずかがそう聞くと、有世は肩越しに笑顔を向けてようやく答えた。
「雨宿りできる場所」
有世がしずかを連れてきたのは、大きな木の下であった。そこであれば、確かに雨に濡れずにすむ。
「通り雨だろうから、すぐに止むはずだ」
有世はそう言って、しずかに微笑みかける。その手は、まだしずかの手を掴んだままである。
二人は無言のままに、空を見上げる。月は完全に雲に隠れていた。
髪は濡れて冷たかったし、夜風は容赦なくしずかの頬に吹きつけた。ただ、有世につながれたその手だけが暖かく、しずかも離すに離せずにいた。走ってきたせいで、しずかの吐く息は荒く、その度に白い湯気が上がる。一方で、有世は息も乱れる事もなく、ただそっと月を待っているようだった。
ひ弱そうに思えたけど。
しずかはそう思い、有世の横顔を見つめる。陶器のような白い肌は、雨に濡れていたが、それでも輝いている。そして、赤い唇は、雨のしずくのせいか、艶々としていた。
ふと、しずかの不躾な視線に気付いた有世が、同じようにしずかを見つめた。
その瞬間、しずかの鼓動は大きく弾み、思わずしずかは顔を逸らす。
…どうしよう。
慌てて有世に背を向けようとしたしずかは、その瞬間、力強く肩を抱きしめられて、よろけて有世の胸に寄りかかってしまった。
「そっちにいくと、濡れてしまう」
甘い囁きにも思える有世の張りのある声が、しずかの耳をくすぐった。そしてまた、しずかの鼓動は大きく響く。
しずかは、なんとかして有世から離れようと思うのだが、想像以上に有世の力が強い事と、そして何故かしずかもいつものような力を出せずに、そのまま有世にもたれかかっていた。
頭がちょうど胸のところにあたり、しずかは有世の鼓動を感じていた。
だが、それ以上に、自分の鼓動が大きく響く。
やばい。このままじゃ、聞こえる。
絶対に、有世に聞こえてしまう。このどきどきが。
慌ててしずかは声を上げる。
「どっ、どうして有世は、どうして水仙の泉に来たんだ？」
君江の話によれば、皇帝陛下は住まいのある桜王宮にいつもいて、滅多な事では出てこないはずだった。
だが、有世はごく普通に、水仙の領地にいた。
有世は、濡れた髪をかき上げながら、微笑んで答える。
「月が」
「月？」
「月が、綺麗だった」
そういって、有世は隠れた月を見上げる。
黒い雲の隙間から、満月の光がこぼれ、そろそろ雨がやむことを告げていた。
その横顔を見ていると、しずかは何も言えなくなった。
どうして、それが水仙の泉だったのか。
どうして、近衛の着る紫紺の制服を着ているのか。
どうして、優しくしてくれるのか。
けど、あたしは、それを聞いてどうすると言うのだろう。
するとふいに有世が口を開いた。
「君は？」
「え？」
有世の言葉の意味を、読み取れずにしずかがいると、有世がしずかの顔を覗きこむようにして言った。
「どうして、水仙の泉に？
どうして、泣きそうな顔をしていたんだ？」
その言葉に、しずかははっと身を起こした。
「…泣いてなんか…ない」
どうして、そんな優しい言葉を言うんだよ。
どうして、わかるんだよ。
顔を見せたくなくて、しずかが体を有世から離しても、今度は有世もしずかを止めようとはしなかった。
肩を震わせているしずかの背中で、ふいに有世が言った。
「雨があがった」
しずかも空を見上げると、綺麗な満月が、雲の中から現れていた。
雨は、止んだ。
だが、しずかは瞳を濡らしていた。その涙がこぼれないように、少なくとも、それが涙だと有世に悟られないように、しずかは必死で月を見上げる。
「そうだな、月が…。綺麗な夜だな」
しずかは小さくそう呟いた。丸い月の輪郭はぼやけていた。それでも、有世が綺麗だと言っていたから、きっと綺麗な月であろうと思って。
ふいに、目の前が暗くなり、しずかは有世の手が、自分の目の上に置かれたことに気づいた。
どうして。
どうして。
しずかは、目を瞑った。大粒の涙が、頬を伝うのがわかる。
どうして、こんなに温かい手を持っているんだよ。
どうして、どうしてあたしは。この手に触れたいと思うんだよ。
だが、急に草むらの中からガサッと音がして、有世の手はしずかから離れる。
思わずしずかが振りかえると、すでに有世は少し先を歩いていたが、しずかの視線に気付くとこう言った。
「また会えるときを楽しみにしている」
しずかはぼやけた視界の中でも、その有世の笑顔を強く刻み付けた。
忘れないように。
また会えるときまで、泣いたりしないように。