THE FLOWER GARDEN
「恋煩い」
「まったく、昨晩遅くまでお出かけになっていたから、こんなことになるんですよ」
戸田はそう言って、ベッドに横たわっている夏目に水のはいったコップを渡す。夏目はそれを受けとって、口にいれておいた薬ごと飲み干した。後味の苦さ
に、顔をしかめそうになったが、我慢した。夏目の高熱を知り、戸田が取り寄せたよく効くという薬だ。おそらくあと1時間もすれば、すっかり熱も下がっているに違いない。
「いいですか、今日はゆっくり眠ってください」
「わかった」
じろりと戸田は夏目の顔を観察した。
「何だ？」
「昨日は、どちらに？」
「…別に…。ただの散歩だ」
夏目にもわかっていた。
戸田が言いたいのは、「どこの女のところに行っていたのか」ということだ。
だが、実際夏目がいたのは、緋薔館を抜け、百合と水仙との領地の境の、ただの野原。しかも、女と逢引きしていたわけでもなく、ただそこに落ちているかもしれないというペンダントを探していたのだ。
霧雨であった。それでも夜が明けるまで探し回した。そして緋薔館に戻ってきた途端に、高熱を出してしまったのだ。
だが、探した甲斐はあった。
夏目の手には、一昨日しずかが無くしたというペンダントがあった。
届けなければ。
夏目は戸田の足音が聞こえなくなったのを確認すると、そっとベッドから抜け出した。
深夜でもあったし、それを黄仙館までやってきて届けるということが、なんだか見苦しい気がして、しずかの部屋のベランダまでやってきながらも、夏目は伸ばしかけた手を思わず引っ込めた。だが、このペンダントを、何としてもしずかの手に渡したかった。
窓枠にでもかけておこうか。
そう思い直し、窓辺に近づこうとした時、まさにそこからしずかが身を乗り出し、部屋を抜け出そうとしていた。
「あ」
目があうと、他の組の領地に侵入した夏目よりも、しずかは慌てた表情を浮かべた。
「うわー、サンキュ。夏目」
ずっと握り締めていたペンダントを渡すと、しずかはそう声を上げた。
「今から抜け出して、これ探しに行こうとしてたとこだったんだ」
そういうと、しずかは顔を上げ、満面の笑みを夏目に向けた。
「すっげー嬉しい」
「あ、いや…」
まともに視線が交わって、慌てて夏目は視線を落とす。
頬がカッと熱くなり、熱が一度上がったような気がした。
「…それじゃ」
くるりとしずかに背を向けて、自分の居場所に戻ろうとした夏目だが、その瞬間視界がぐらりと揺れた。慌てて壁に手をついて、夏目は一呼吸する。
まずい、かもしれない。
…薬が、効いて無い。
頭をもう片方の手で支えた夏目のすぐ後ろにしずかはやってきて、心配そうに尋ねる。
「夏目？どうした？」
「いや、何でもな―」
振りかえった途端、掌にひんやりと冷たいしずかの手が置かれて、思わず夏目は言葉を無くした。
「すっげー熱じゃん。どうしたんだよ。風邪か？」
夏目の顔を覗きこむように見つめるしずかの強い眼差し。
…まずい。
笑顔で夏目は答えながら、しずかの手を自分の額から離す。
「まあ、大丈夫だから」
だがしずかはいっそう心配そうに夏目をのぞきこむ。
「どこが大丈夫なんだよ。よし、夏目。ちょっとここで待ってろ」
「え？」
しずかは長い髪を靡かせて、振り返りながら答えた。
「いいもん作ってきてやっからさ」
そして、部屋を出ていく。
薔薇組隊長・夏目優は、そうして、水仙の姫・西御寺しずかの部屋に、一人取り残されたのだった。
帰ろうと思えば、もちろん帰ればいいことだ。
だが、夏目の足はそこから動けなかった。
高熱のせいで、まっすぐ歩けなかったこともそうだ。
だが、それよりも、夏目の心が、しずかの部屋から抜け出せずにいた。
…まずい。
夏目はそう思いながらも、額に触れる。
焼けつくような熱さに、自分でも驚きながら、額にしずかの手が触れた時のことを思い出さずにはいられなかった。
…まずいぞ。
体温が、さらに１度ほど上がった気がした。夏目は、立っているのがつらくなり、思わずベッドに腰掛けたところで、しずかが戻ってきた。その手には、カップを持っている。
「ほら。たまご酒。風邪に効くんだぞ」
「え…」
自慢げに微笑むしずかを見て、そしてカップに入ったものを見る。
正直、おいしそうには思えなかった。しかも、しずかがこれを作ってきたとなると、その気持ちはさらに増した。
「騙されたと思って、飲んでみろって」
そういってしずかが強く言うので、夏目は素直に口をつける。そして、迷わず一気に流しこんだ。ほんのりと甘く、そして酒が夏目の気分を高揚させた。
「…おいしい」
正直な感想を言うと、へへっとしずかが照れ笑いを浮かべ、答える。
「唯一作れる料理なんだ。母さんが教えてくれた」
瞬間、夏目はそのカップを落としそうになる。
…まずい、を通り越して、やばい、だ。
夏目は酒も手伝って、いっそう早くなる鼓動を感じていた。
ふと、扉のノックされる音がして、隣の部屋から女性の声がした。誰かがしずかの部屋にやってきたらしい。
「…姫様？」
「げ、君江だ。ちょっと黙っててくれよ、夏目」
しずかはそう答えると、慌てて扉を開け、出ていく。
夏目のぼんやりとした頭に、遠くで話すしずかと、その世話係の声が聞こえてくる。
「どうかなさいました？先ほど何やら料理をなさっていたと聞きましたが」
「まあ、ちょっとな」
「何か…、匂いがしますね」
思わず夏目は身構える。薔薇の香とわかれば、問題は大きくなる。どきりとしたのはしずかも同じようで、一段と声を張り上げると、君江を追いたてるように言った。
「そんなことより君江、さっきお前のこと石崎が探してたぞ。さっさと行かないと、あの石崎のことだから、たっぷりお小言言われちまうぞ」
「え？…そうですね。では、失礼します」
ぱたぱたと部屋の中を走る音がして、扉がパタンを閉まった。
朦朧とした夏目の視界の中に、そして溜息をつきながらやってくるしずかが映った。
「ごめんな、夏目」
「いや、もう失礼するよ」
立ちあがった夏目に、しずかは駆け寄って、その両腕を掴んだ。
「無茶すんなよ。風邪だからって軽く見ると、痛い目にあうぞ」
風邪…？
いや、違う。
これは、風邪ではない。
戸田の薬が効かないのも、しずかのたまご酒が効かないのも、当然だ。
どんな万能薬でも効く薬などないのだから。
――恋煩い、には。
「いや、大丈夫だ―」
それでもしずかを押し切って出ていこうとした夏目は、次の瞬間がくんと膝から床に崩れた。倒れなかったのは、なんとかしずかが夏目を支えようと、抱き止めてくれたからだった。それでも支えきれずに、二人は抱き合うようにして、床に座りこむ。
いくらしずかが、野蛮とか粗野と言われると言っても、やはり女性で、夏目は自分の体にすっぽりと隠れてしまうしずかの華奢な体を感じずにはいられなかった。
だがしずかは、そんなことはお構いなしに、夏目の方を見ながら心配そうに尋ねる。その吐息が、夏目の耳にかかった。
「おい？夏目？大丈夫か？」
大丈夫、なわけがない。
ここにいれば、病状はよくなるところか、悪化するだけだ。
叶わぬ想いが、いっそう増すだけだ。
夏目はそう思いながら、虚ろになった頭で懸命に答える。
「あ、ああ。大丈夫だから」
だが、次の瞬間、さらに視界がぐらりと歪んだ。
「え？なっ、夏目？」
しずかがそう言っているのが聞こえる。
夏目は、自分の熱い体を受けとめてくれる、ここちよいひんやりとした肌を感じながらも、呪文のように答える。
「大丈夫、だから―」
近くて遠いところで、しずかが自分の名前を呼んでいるように、夏目は感じていた。
これは夢か。
それとも現実か。
わからない。
わからないままでいい。
ただ、こうしていられれば。