THE FLOWER GARDEN
「待宵草」
「朝顔…というのは、どうかしら」
春のような麗らかな日差しを背にあの方がそう告げた時、私の名前は朝顔に決まった。
朝顔。
その瞬間から、佐野清美は風に吹かれた花びらのごとく散り、消え去ったのだ。
私が、桜王宮の正面にある朱雀門にたどり着いたのは、今からもう三日も前のこと。
女同士の諍いに疲れ、逃げるようにしてこの桃源郷を目指し、歩くこと数日。
しかし、目の前に立ちはだかった大きく気高いその門は、私を優しく受け入れてはくれなかった。
「お願いします。私、もう何日も飲まず食わずで…」
「ここを通るには、それなりの人からの許可が必要なんだ。あんたはそれを持っていないだろう」
「それは…でも、お願いします。私、何でもしますから」
必死で頼んでいるというのに、制服を着た門番は動こうとする気配すらない。
だけど、私にはもう戻れる場所などなかった。
悩む余裕もなく、私は地面に跪いた。
「お願いします、どうかどうか…」
私の記憶があるのは、そこまで。
地面すれすれに頭を下げると同時に目の前が暗転し、私の記憶はぷつりと途絶え、次に目が覚めると、小さな部屋に私は寝かされていたのだ。
心地よい風が吹いてきて、目の前に薄紅の花びらが一枚、ひらひらと舞い降りてきていた。
体を起こすと、窓の外には薄紅の桜が窓枠と言う額縁を突き破るようにして咲き誇っている。
ここは一体どこなのだろう。
そう考えていると、ふいに背後から女性の声がした。
「本当に、運がよい方ね。
この桜王宮に入るには、それなりの身分があるか、そういう方と縁故があるか、相当の器量がなければ無理なのよ」
そう話してくれたのは、菖蒲と言う女性。年は私と同じくらいだろうか。
綺麗な小花柄の模様の着物を着ていて、確かに可愛らしい人だ。
一方で私は、一週間近く歩きとおしていたせいか、髪はぼさぼさ、制服だって埃まみれ。
器量の問題以前だ。
恥ずかしさで俯いていると、菖蒲さんは私の肩に触れて言った。
「さあ、戯言はこのくらいにして、貴女も身支度をしなければ。佳乃様がお待ちです」
「よしの様？」
髪を梳かし、体を拭きながら、菖蒲さんはいろいろと説明をしてくれた。
あの門は朱雀門といい、門兵が言っていた通り、滅多なことでは通れない門だということ。
その前で倒れた私を、偶然通りかかった森宮佳乃という人が助けて、自分の邸宅まで連れてきてくれたということ。
普通であれば、こういうことはないのだけれど、佳乃様はこの王宮のお妃さまだから、陛下も特別許されたのだということ。
「通りかかったのが佳乃様だから良かったものの、これが貴緒様だったりしたら、きっと今頃あなたは打ち首になってるわ」
菖蒲さんはさらりとそう言う。
貴緒様は陛下の妹君で、つまり佳乃様の義理の妹にあたるお人。
菖蒲さんの話によれば、貴緒様は佳乃様を嫌っているのだそうだ。だけど菖蒲さんに言わせると、それは単純な嫉妬で、この桜王宮では佳乃様を慕っていない人間は、貴緒様くらいしかいないそうだ。
同じように、貴緒様を毛嫌いしている人間は、山ほどいるという。
桜が咲き乱れる綺麗な世界だというのに、どこも同じなのかも知れない。
目に見える美しさとは裏腹に、奥底にはどす黒い闇を抱えている。
そう思うと、心の奥にぽっかりと穴があいた気持ちになった。
けれどそんな私の気持ちを埋めてくれたのが、佳乃様だった。
麗らかな日差しを後ろに微笑まれた佳乃様は、美しさと慈愛に満ちた女神のようなお方だった。
まるで平安王朝のように、見るも艶やかな着物を纏った美しい女性に囲まれた中でも、佳乃様は一際輝いていた。
あまりの美しさに言葉をなくした私に優しく微笑みかけると、佳乃様は何でも話して構わないと言ってくれた。
その言葉に甘えて、私はすべてを話した。
初めは他愛もない噂だったということ。でもそれは、真実となり、些細ないじめへとつながった。
それはどんどん悪質なものへと変わっていき、私は耐えられなくなり、森の奥にあるという楽園を求めて、一週間歩きに歩いて、ようやくここにたどり着いたということ。
親は私を見捨てるようにしてこの学園にいれたのだから、私には、もう戻る場所はないのだということ。
涙でぐしゃぐしゃになった顔の私に、佳乃様はそっとハンカチを差し出してくれた。
「あなたの気持ちはわかりました。
好きなだけここにいらして。ここでの作法は、杜若（かきつばた）が教えてくれるでしょうから」
すると佳乃様のそばに控えている十人近くいる女性の中から、面長顔の女性がすくっと立ち上がった。
「わかりました。
ところで佳乃様。この者に名前を…」
杜若さんの言う意味がわからず、首を傾げる私の前で、佳乃様は少し考え込まれてから答えたのだ。
「そうね。
朝顔…というのは、どうかしら」
この王宮では、女性は全て花の名前を自分の主から承り、その名で呼ばれるという話は、後から菖蒲さんに聞かされた。
つまり、名前をもらったらここの住人であることを認められたということ。
そしてこの時から、私は朝顔になった。
名前を授け、満足そうに佳乃様が立ち上がろうとしたところで、ふらりと体が揺れ、肩にかけていた薄紅の肩掛けが床にふわりと落ちる。
「佳乃様っ」
慌てて杜若さんが佳乃様を支えた。
「早くお水をっ」
菖蒲さんが慌ててお水を渡す。佳乃様はほんの一口飲んだ。
「大丈夫ですか？佳乃様」
「平気よ。少しめまいがしただけ。少し横になればよくなるわ」
「では、すぐ横になりましょう。さあお部屋に」
杜若さんがそう言うと、他の女の人たちも杜若さんの後に続く。
「あの…」
私もそうしていいのかと尋ねると、菖蒲さんが振り返って小声で口早に言った。
「佳乃様は、お体が弱いの。今日は馬車で外に出られたし、きっとお疲れになったのでしょう。
悪いけれど、あなたはここで待っていて」
「は、はい…」
待てと言われはしたものの、十分経っても誰もやってくる気配はなかった。
そのうちに、私はどうしてもお手洗いに行きたくなってしまった。
どうしようかともじもじしていると、運よく廊下に召使風の老婆が通りかかり、場所を聞いて私はほんの少し部屋を出ていった。
もしかしたら、杜若さんが戻ってきて私のことを探しているかもしれない。
急いで戻ってくると、そこには見知らぬ男の人が立っていた。
その人は、深紅の制服姿で、手にした薄紅の布を抱きしめるようにして握りしめていた。
そして、その布をそっと口元に近づけると、その人は深くその布に顔を埋めた。
差し込む光の中で、あまりに美しいその立ち姿に、私は思わず息をのんだ。
しかしそれはほんの一瞬のことで、その人は私に気づくと、はっと顔をあげて私を睨む。
逃げなくては。
本能でそう思った。
が、次の瞬間、私は逃げだすことも声を出すこともできなくなっていた。その人に背後から片方の手で体を抑えつけられ、口にはもう片方の手をあてがわれていたのだ。
「誰だ？」
小さなかすれた声が、緊張の中私の耳元に響く。
答えを待つように、そっと口をふさいでいた手が離れる。
「さっ、佐野清美ですっ」
咄嗟にそう答える。思った以上に声が大きくなって出た。
すると耳元に、くすりと柔らかな笑い声が聞こえてきた。そうして、私の体を抑えていた手も、ゆっくりと離れる。
「そうじゃない。ここでの名前だ。いつからここに？」
幼子に教え諭すようにその人は、私の顔を覗き込みながら言う。
「今日からですっ。あっ、朝顔です」
慌ててさっきもらったばかりの名前を口にすると、その人は満足そうに頷いた。
「では、ここでのことは他言無用にて。朝顔殿」
その人はそう言うと、私に持っていた布を渡して立ち去った。
残されたのは、心臓が痛いくらいに高鳴っている私と、薄紅の柔らかな布、そしてあの人の残り香。
あの人、どうしてここに。
何を、していたんだろう。
手元に視線を落とし、渡されたのが佳乃様の肩掛けであったことに、私はようやく気付いた。
それから一週間、私は思ったよりも早くそこでの生活に慣れてきていた。
佳乃様のお見舞いにいらした陛下にも、遠くからではあったけれど、お目にかかることができた。
後光の射したようなそのお美しい姿が佳乃様に寄り添うところなど、見ているだけで幸せになれた。
他にも、花族と呼ばれる方々が佳乃様のご様子を気にかけて、いろいろな貢物を持ち現れたけれど、佳乃様の肩かけを持っていたあの人は、現れることはなかった。
「困ったわね、いつもなら午前中にはいらっしゃるというのに」
杜若さんがそう言って、腕組みをして先ほどから強く雨が降り出した外の様子を見ている。
佳乃様はもともと体が弱いこともあって、定期的に薬が届けられる。今日がその日なのだ。
あまり体調がすぐれないこともあって、今日はどうしても薬がいるのだけれど、約束の時間になっても、薬はやってきていない。
「ねえ朝顔、悪いんだけど、朱雀門のところまで様子を見に行ってくれないかしら。きっと、日向様が薬を持っていらっしゃるはずだから」
杜若さんがそう言って私を見つめた。
「ひゅうが様？」
聞いたことのない名前に、私は聞き返す。
すると隣で聞いていた菖蒲さんが口を挟んだ。
「薔薇組の副隊長の成瀬日向様よ。薬はいつも日向様が届けてくださることになっているの。
普通ならばいくら副隊長といえども、一介の騎士にこの王宮への立ち入りは許さないのだけれど、日向様だけは特別。
陛下からの信頼も厚いし、佳乃様も日向様を気にいってらっしゃるの。
見ればわかるわ、きっとあなたも一目で恋に落ちるから」
薔薇組の成瀬日向、という名前は聞いたことはあった。
でも知っているのはその人が学校でもすごく人気があったというくらいで、それどころではなかった私には関係のない人だった。
それは今の私も同じだ。
菖蒲さんは一目で恋に落ちると言ったけれど、私がその人を好きになることはない。
なぜなら、私はもう別の人を好きになっていたのだから。
あの時、薄紅の布に顔を埋めるあの人の横顔に、私は一目で恋に落ちたのだ。
どうしてそうしていたのか、その名前もわからないあの人に。
朱雀門が近づいたのか、馬車がゆっくりと止まる。
門兵に誰か来ていないかと尋ねようと傘を持って外に出ると、激しい雨の中門が開き、雨で赤茶色に色の変わった制服を着た人が、馬に跨り、姿を現したところだった。
「あのっ」
傘を差し出すようにして声をかけると、その人は馬の足を止め振り返った。
その瞬間、私の心臓は再び激しく動きだした。
私の愛しい人は、偶然にも成瀬日向その人だったのだ。
「ああ、たしか…」
日向様はそう言うと、私の顔を確かに見る。
覚えてくれていると思うと、更に鼓動が速くなった。
「朝顔です」
日向様は馬から降りると、私の差し出した傘の柄を押して、私が濡れないように戻した。
「どうした。こんな雨の中を」
そういう雨の中を、日向様は傘もささずに駆けてきたのではないでしょうか。
そう言いたい気持を抑えて、私は口を開く。
「日向様がいらっしゃる時間が遅いようだから、お迎えに上がるようにと杜若さんが―」
「佳乃さまのお加減でも悪いのか？」
日向様の表情が強張る。
「あ、いいえ。そういうわけではないのですが」
崩したのではなく、崩しそうなのだとはいえなかった。
日向様の表情が、あまりにも苦しそうだったから。
そしてその表情に、私は気づいてしまったのだ。
日向様が、佳乃様をとても大切になさっていることに。
とても深く、愛していらっしゃることに。
その答えは、どうして日向様が佳乃様のお部屋にいて、佳乃様の落としていった肩かけを抱きしめるようにしていたのか、悩んでいた私の心にするりと落ち着き、私の日向様と佳乃様に対する思いを、一層強めた。
日向様は私の言葉に納得したのか、小さくため息をつく。
「そうか。ならいい。遅れてすまなかった」
日向様はそう言うと、私に包みを渡した。
そして素早く踵を返して、再び馬に跨る。
いくら薔薇組の副隊長とはいえ、そう簡単に佳乃様とお会いできるわけでもない。
そういえば、あの日も薬の届く日だった。
思わず私は、日向様を引き留める。
「あのっ、日向様」
日向様が振り返った瞬間、私は手に持っていた肩かけを日向様に届くようにと投げる。
咄嗟のことにも、日向様はきちんとそれを受け取った。
「せめてそれをお持ちください。雨避けに」
「ありがとう」
にこやかにそう答えると、日向様は再び門に向って歩き出そうとした。
その背中に思わず私は引き留めてしまった。
「あのっ、いいんですか？佳乃様にお会いにならなくっても」
小さく頷き、日向様はああと答える。
笑顔は浮かべているけれど、その目に一抹の淋しさが過る。
薬を届ける日だけお会いできるのであれば、日向様はここ二週間、佳乃様にお会いできないことになるのだ。
「あのっ、でもっ。佳乃様もお待ちしてましたっ」
その言葉は、咄嗟についた嘘だった。
佳乃様には、最愛の陛下がいらっしゃる。
相思相愛のお二人に、一介の騎士が立ち入る隙などどこにもない。
おそらくは日向様もそれをわかっていらっしゃる。
だけど想いは、止められない。
初めて会った時の日向様は、その全てを承知して、それでもなお佳乃様への情愛を捨てきれずにいるように私には見えたのだ。
きっとこうして雨の中駆け付けたのも、もしかしたらひと目でも佳乃様にお会いできると思ったから。
だとしたら、その想いを少しでも叶えて差し上げたい。
その一心で、私はそう嘘をついたのだ。
小さな私の嘘に、日向様は一瞬あっけにとられたように私と見つめると、ふんわりと優しく微笑んだ。
その温かさに、雨も、何もかも忘れて、私は吸い込まれるように日向様を見つめた。
「雨風がお体に触る」
それが誰に対する言葉なのか、私が理解した時には、日向様はまるで少年のように無邪気に微笑んだのだ。
「これは、しばらく借りておく。朝顔」
日向様は、私が投げた肩かけを掲げそう言うと、朱雀門を出ていった。
人は他人の噂話が好きであるというのは、どこでも同じこと。
しかも、そこが閉鎖された状況であればあるほど、その噂は波紋のように広がっていくのだと、私はこの王宮に来て初めて気づいた。
しかもそれが自分には関係がなく、目上の者であればあるほど、噂は尾ひれをつけて広がっていく。
例えば、前妃である椿の宮様と、花族の新参者である楓子爵との恋の噂。
例えば、桂公爵とその美貌の騎士との関係。
佳乃様の身辺を騒がしくする噂が流れたのも、それから程無くしてのことだった。
薔薇の姫・白鳥華夜乃の入宮だ。
美しい姫が、薔薇組から陛下への贈呈品であることは、私ですら気づいていた。
そしてそれは、百合組のご出身である佳乃様の身も心も揺るがす存在であることも。
そう。
陛下と佳乃様が相思相愛であることは、誰の目にも明らかだったのに、
簡単に陛下は他の女も娶ることにしたのだ。
佳乃様はそれでも、人前、特に陛下の前では、気丈に笑顔を見せていた。
だけど、私は見てしまった。
ひとり静かに、涙を流している佳乃様のことを。
その証拠に、薔薇の姫の入宮が延期になった途端、佳乃様はまた体調を崩してしまわれたのだ。
唯でさえ細い佳乃様のお体が、更に小さくなっていかれるのを見ていると、本当に陛下を恨めしく思い、
そして浅ましくも、私はいっそ佳乃様のお側には、日向様の方がよいのではないか、と思うようになっていた。
だから、薬を届けに来た日向様に佳乃様のご様子を伝えた。すると、そう、と短い返事が返ってきた。
その表情は厳しく、何かを決意したようにも見えた。
そして、その決意は、数日後明らかになった。
「薔薇の姫が逃亡した？」
「誘拐かもしれないって話よ」
その噂は桜王宮を駆け巡っていた。
何せ、婚礼の儀を翌日に控えた夜だったのだ。
初夜を迎える薔薇の姫は、本来ならば陛下の寝殿へ参るはずであったが、いつになってもやってくる気配がない。心配になった近衛が様子を見に訪れると、いるはずの姫はおらず、身の回りの荷物も無くなっていたのだ。
薔薇の騎士たちも、血眼になって探しているという。
それはそうだろう。
ともすれば、陛下に対する反逆罪にもなるのだ。
そんな時だった。
霧雨の中最後に日向様がお見えになったのは。
「これを」
いつもと変わりなく差し出される薬を受け取りながら、私は何気なく口にした。
「大変ですね、薔薇組も。朝早く、しかもこんな雨の中人探しだなんて。早く、薔薇の姫も見つかるといいですけど」
すると日向様はにっこりとほほ笑まれた。
「朝顔が心配しなくても、じきに見つかる」
「え」
自信のある笑みに、私は感じた。
もしかして、日向様は薔薇の姫の居所を、もう知っているのではないか、と。
だけどそう尋ねる前に、日向様は颯爽と馬に跨る。
「佳乃様にも、よろしく伝えてくれ」
それだけ言うと、日向様は手綱を強く引き、背を向けた。
いつもは言わないそのお言葉に私は驚いた。
「あのっ、それはどういう」
慌てて追いかけようとすると、日向様は振り返り、再び微笑んだ。
「佳乃様のこと、頼んだぞ。朝顔」
安らかな笑顔に垣間見えたのは、一縷の決意。
「あのっ」
そうして日向様は、一度も振り返ることなく、桜王宮を出ていった。
それからすぐに話は伝わってきた。
薔薇の姫を連れ出したのは、日向様で、
姫は日向様の寝室で眠っているところを発見された。
二人はそれを認めていて。
日向様は、どんな罪も受け取る覚悟なのだという。
それを聞いた桜王宮の女中たちは、皆こぞって、嘆いていた。
「二人は、姫が緋薔館にいたころから、恋仲だったという話よ」
「日向様は陛下を裏切って、その罪を受けてでも、愛する人を渡したくなかったのよ。
ああ、薔薇の姫が羨ましいわ。一度くらいは殿方にそれほど愛されてみたいものだわ」
だけど、私だけは違っていた。
私だけには、わかっていたのだ。
日向様が守りたかったものは、決して薔薇の姫ではない。
それは、もっと儚く、弱く、だからこそ、守りたかったもの。
「雨が降ってきたわ、朝顔。佳乃様を中へ」
杜若さんがそう私に言う。
雨が降ると、私は思い出す。
あの子供のような無邪気な笑顔。
熱を帯びた真摯な眼差し。
その視線の先にいるのは、決して私ではなかったけれど。
あの人の恋は、私の恋でもあったのだ。
ひたむきで、純粋で、自分の心にだけ秘めた恋。
そして、決して叶わぬ恋。