THE FLOWER GARDEN
「銀花」
「さっびー」
しずかはそう呟いて、両腕で体をさすった。
だが、床から染み込んでくるような寒さに変わりはなく、避けるようにしずかはその場でぴょんぴょんと飛び跳ねた。
有世から、小高い丘にある別邸に来るよう言い渡されたのは、陽がすでに落ちている時刻だった。有世の用意した馬車に揺られてやってきた別邸は、華やかな桜王宮とは異なり、研ぎ澄ましたような時間が流れていた。通された部屋は薄暗く、ソファーとテーブルがある程度で、その家具のフォルムも、シャープで余計な造詣を一切省いたといった様子だ。四隅に置かれた明かりが、ぼんやりとこの部屋を照らしているものの、閑散とした佇まいが勝り、更に寒気を誘う。
そこで、待つこと数十分。しかし、有世が現れる気配はない。
「そんな格好しているからだ」
飛び跳ねるしずかを見て、隣で先ほどから腕組みをし、微動だにしない日向が口を開く。
確かにしずかは、いつもの制服姿。プリーツのスカートの丈は、膝よりも上である。
一方で日向は、いつもと違わない格好とはいえ、しずかと比べれば、足が出てないだけでも明らかに温かそうである。
しずかは、足を止め、日向を睨みつけて答えた。
「あんなぴらぴらした服、着れるわけねーだろ。だいたい柄じゃねーよ」
今朝から、珍しく雪のちらつく日であった。外に出ることになり、日向が用意したのは、濃淡の混ざったキャメル色の毛皮のコートだった。しかし、大きな襟や、ドレスのように豊かなドレープを見て、しずかはそれを着ることなく蓬につき返したのだ。
「その口もすぐに正せ。
椿の宮の努力も甲斐なしだ」
「うっせーっつぅのっ。お前は小姑かっ」
思わずしずかがそう怒鳴り、日向の前に立ちはだかろうとすると、慌てて相川が二人の間に立ち入った。
「しっ、しずかさまっ。おやめくださいっ」
しずかと相川のにらみ合いが続く中、日向は相川に視線を移すこともなく、その名を呼んだ。
「相川」
いいから、このままにしておけ。
日向がそう言っていることに気づいて、名残惜しそうにしずかを見つめてから、相川は二人から離れた。
わずか数分の出来事ではあったが、それでも相川の忠誠心の深さを見せ付けられて、悔しさで息を呑むしずかに、日向は淡々と答える。
「小姑ではない、隊長だ。立場で言えば、お前より上だ。最初の約束を忘れたのか」
「くっそ…」
しずかはぎりぎりと奥歯をかみ締める。
隊長には、絶対服従。
あんな約束するんじゃなかった。
隊長である日向を屈服させるには、しずかが日向より上の階級にならねばならない。つまり、妃にならねば、日向に土下座させることはできないのだ。
いつか絶対、こいつに土下座させてやるっ。
「どうした、しずか」
張り詰めた空気の部屋に柔らかな声が響く。
「有世…」
寒いというのに、有世の空気は、温かさすら感じられた。
有世は、光沢のある白いコートを羽織り、しずかと日向の前まで歩きながら口を開く。
「喧嘩はよくない。特に男女の喧嘩は、男が引いてやらねばらない。
そうではないか、日向」
「…はい」
有世の問いかけに、日向は小さく答える。その意固地な態度に、有世は軽やかな笑い声を上げた。
「しかし、日向が真っ向から女性と喧嘩をするとは、意外なこともあるものだ」
にこやかな笑顔の有世に言われ、日向は深く頭を下げた。
「見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ございません」
「大事な姫宮であるのだから、そのように扱わねばならぬ」
「はい」
頭をさげる日向を見て、ざまーみろ、としずかは心の中で呟いた。
それにしても、寒い。
有世とお付の近衛が入っても、この部屋の寒さは変わらなかった。
悴む手をこすり合わせ、吐息で温めてはいるが、応急措置にもなりそうにない。
「しずか？」
有世に名前を呼ばれ、顔を上げたしずかは、次の瞬間その手を有世に掴まれて、思わず体を硬直させた。
「…ありっ」
有世は、しずかの両手をやさしく包み込むと、微笑みながらこう言った。
「日向は私にとって大事な臣下。多少のことは許してやってほしい」
「…わ、わかったよ」
声が上ずっている。
掴まれた手から、有世の体温が、柔らかさが伝わってくる。
それは、しずかを今までに感じたことのない気持ちにさせる。
体を引いて、距離を空けようとするしずかに対し、有世は掴んでいるしずかの手を離す気配は一向になかった。
「どうかしたのか、しずか？」
「へっ？」
「顔は赤く火照っているように思うが、手は氷のように冷たい」
素直にそう言われて、しずかの頬は更に赤くなった。
「そっ、そんなことっ、ねぇよっ」
それだけ言うと、慌てて有世から手を抜いた。
恥ずかしいと思う反面心地よいと感じ、積極的に手放そうとしなかった自分をしずかは羞じ、有世に背を向けた瞬間、
「くしゅんっ」
かわいらしいくしゃみが、しずかの口から漏れた。
有世は、慌てて自分の着ていたコートを脱ぐと、未だに自分に背を向けるしずかの肩にかけようとした。
「しずか、これを―」
そう言いかけたところで、同じように自分のジャケットを、しずかの肩にかけようとしていた日向と目が合い、有世は言葉をとめた。
日向は、というと、しばらく有世と見詰め合っていたものの、僅かに微笑みかけるように有世に向かって答えた。
「陛下に風邪を引かれては、困ります」
そうして二人は再び見つめあった。
次に口を開いたのは、有世だった。
「そう、だな。
気遣いに礼を言う、日向」
自分のコートを再び羽織る有世を尻目に、日向は自分の着ているジャケットを、無造作にしずかの肩に投げつけた。
「ほら、これでも着てろ」
振り返って文句でも言ってやろうと思ったしずかだが、薄着になった日向を見て、何もいえなくなった。
暖かそうに見えた日向だが、そのジャケットの下には黒い薄手のシャツしか着ておらず、どうみても寒そうだ。
しかし、シャツを通して露になった引き締まった体を、寒さに震わせる様子もなく、日向はいつもと変わらずそこに立っていた。
「サンキュ…」
しずかの礼に、日向は答えることなく、何事もなかったかのようにして、ただじっと床を見つめていた。
「しずかが凍えぬうちに、では始めよう」
静まり返った場を、一新するように有世がそう言うと、近衛がささっと動き出した。
「灯りを」
すると、四隅に立っていた近衛が、その灯りを消した。
部屋は一瞬、真っ暗になる。
だが、次の瞬間、壁だと思っていたところが、一斉に開かれた。
そして、目の前に広がった光景に、思わずしずかは声をあげた。
「うわ…」
山上という場所もあるのか、そこに広がるのは、雪に覆われた一面の銀世界だった。
しかも、ちらほらと、降っている雪は、月光に照らされて、水晶のような輝きを見せている。
「雪…だよな？」
「銀花とも言う。雪も花に例えられるのだ」
それまでは、寒さに凍えあがっていたというのに、しずかははしゃいだ声を上げて言った。
「な、有世っ。庭に出てもいいか？」
「え」
「靴なら、相川が持ってきてるし。なっ、相川」
急に言われた相川は、ばたばたとしずかの靴を用意しに走っていった。
「ああ。私は構わないが、しかし―」
「やったぁー」
有世の言葉を最後まで聞くことなく、しずかは喜ぶと、相川が持ってきた靴を奪い取って、庭に駆け出していった。
「すっげー、真っ白っ。ヤッホーッ」
そして、庭に足跡をつけると、今度は、積もった雪を掬い上げては、空へとぱっと散らす。
「寒いんじゃなかったのか…」
思わずそう呟く日向に、くすりと笑って有世は答えた。
「よいではないか、日向。しずかはとても楽しそうだ」
そうして満足そうに庭を眺めていた有世だったが、ふいにその目を見開いて、日向に声をかけた。
「本当によいのだな、日向」
「何がでしょう」
「しずかを、妃とすることだ」
一呼吸置いて、日向が答える。
「そのお返事は、以前にお答えしたはずです」
「そうであったな。しかし」
有世はゆっくりと目を閉じた。そして、ゆっくり開くと、答える。
「しかし、私は日向の了解がほしいのだ。日向が許してくれることならば、佳乃も承諾してくれるだろう」
日向がすっと視線を有世に向けたところで、いきなり冷たい衝撃が頭にあった。ぼたっと音がして床を見ると、雪の塊が落ちている。
「はははっ、どうだ日向っ。ざまーみろっ」
庭からは、しずかが仁王立ちになって笑っていた。そんなしずかをじろりと睨むと、日向は髪についた雪を払いつつ、気持ちを整えながら有世に答えた。
「…佳乃様は」
そう言ったところで、日向は手を止めて、改めて言い直した。
「佳乃様ならば、陛下のなさることは、全てお許しになります。
そういうお方でしたから」
庭では、何の反応もしない日向に対し、しずかが不満そうに睨んでいる。
日向とて、庭に駆け下りていきたい気持ちはある。
だが、目の前には有世がいて、何より大事な話をされているのだ。
「日向のばーかっ、いくじなしーっ、すっとこどっこいーっ」
ついに、しずかは日向の悪口を言い始めた。
しかし、すっとこどっこいとは何だ？
逸る気持ちを抑えて、ぐっと拳を握り締めていると、有世がぽつりと答えた。
「ありがとう」
心からの言葉に、日向の拳の力も、緩む。
お世辞で言ったのではない。
あの方は、本当にそういうお方だったのだ。
「おーい、日向っ。早く来いよーっ」
先ほどから反応をしないことが不安になったのか、しずかの声に先ほどの勢いがなくなっていた。
そんなしずかを見て、有世は頬を緩ませると、日向に言った。
「呼び寄せたのは、この話をしたかったのと、この景色をしずかに見せたかっただけだ。
しもやけにならぬ程度のところで、引き上げてくれ」
微笑む有世をみとめてから、はいと返事をすると、日向はすぐさま庭に駆け出していった。