男の責任の取り方
「なあ、由美子ちゃんって、ちょっとだけ原田さんに似てない？」
そういって大熊が、俺に手にしていた写真集を差し出す。
さっきから、大熊は買ったばかりのこの写真集を、何故か俺の家に持ち込み、俺のベッドで寝転がりながら見ていると思ったら、いきなりそんなことを言い出した。
見せられたのは、水着姿の女性タレントの、大胆なポーズの写真。由美子というのは、そのタレントの名前らしい。
媚びたような視線が嫌だった。
「似てない」
きっぱり俺はそういうと、写真集を押し返した。大熊は、そうかなぁ、とだけ言って、再び写真集に没頭し始めた。
人気のあるタレントらしいが、原田とは全然違う。
まっすぐで、だから余計に傷つくことはあっても、誰かにこびへつらうような視線は、絶対に送らない。
似てるなんて、どこをどう見てるんだ。
「そうかな、原田さん、まじでかわいいじゃん。体も細くて。いつもどきどきすんだよね、薄着になってたりすると、下着のライン見えて」
じろりと睨むと、大熊はごめんごめんと慌てて謝った。
「そういう話をしているんじゃないだろ」
怒り気味にいうと、大熊は逆に顔をにやつかせて言った。
「帰れって？
俺って邪魔もの？
原田さんと二人っきりになりたいって？
二人っきりになって、何すんの？」
そうしてにやける。
大熊に、原田が家に来ることを伝えたことを、俺は後悔して、その質問には答えずに言う。
「いても構わないが、姉貴も来るぞ」
言った途端に、大熊の顔色が変わる。小学生の頃から、同じサッカーチームだった大熊は、姉とも顔見知りで、頭の上がらない姉が苦手だ。
「まじ？」
「言っただろ」
「俺を追い出すための嘘かと思った」
「嘘ついても仕方ないだろ」
「だって、彼女を、家族のいない休日に、自宅に呼ぶなんてさー。目的、バレバレじゃん。
でも、俺は正直嬉しかったけどね。あの光一もやっぱりって―」
俺は大熊を睨むと言った。
「くだらないこと言ってると、来るぞ。姉貴」
「ひぇぇ。じゃ、帰るからさ。原田さんによろしく」
「ああ」
大熊は手をひらひらと揺らめかせて、慌てて部屋を出て行った。
その背中を見て、俺は少しだけ後悔する。
そもそもは、姉がきっかけだ。
俺に好きな子がいるとわかった途端、会いたいの一点張り。
ようやく旦那の待つ北海道に戻ったかと思ったのも束の間、旦那の東京出張についてくることになったらしく、ついでに実家に寄る日に、原田を連れてくることを俺に命令した。
一度は断ったけれど、頑固な姉は、だったら直接原田に連絡すると言い出し、結局、俺が原田を誘うことにした。
だけど、原田には何も伝えていない。
悪趣味かもしれないけど、原田の戸惑った表情を、見てみたかったから。
とっておきのサプライズは、もうひとつ。
今日は、原田にも姉のシュークリームと並ぶ大好物のスフレを、食べてもらおうと思ってる。
俺の作った菓子を、幸せそうに食べる原田の笑顔も、俺は好きだ。
そのスフレを作ろうと、リビングに下りてくると電話が鳴った。姉だった。
「いま横浜着いたから。そっちに着くくらいに、駅に迎えに着てよ。荷物が多くて大変なのよ」
「これから準備するから行けそうにない。ここまで一人で来れるだろう」
「準備って何の準備よ。あんた、まさか、部屋とかこぎれいにしてるわけ？彼女連れ込もうってわけ？」
「スフレ作るんだ」
「え？ほんとー。やったー」
「だから、荷物が多くても、我慢してくれ」
そこで電話を切る。
大熊がいたタイムロスもあるし、原田が来るまであまり時間がないのだ。
ようやく、台所に立つと、大事なスパイスがない。
バニラエッセンス。
姉の大好きなバニラエッセンス。
曰く、恋の味がするらしい。
一度、いれずに作ったら、甘くないスフレなんてと一口しか食べてもらえなかった。
小さくため息をつくと、財布を片手に靴を履いた。
「兄ちゃん、どっか行くの？」
野球のユニホームを着た弟の大輔が部屋から顔を覗かせた。
「買い物。悪いが、留守番頼む」
「えっ、おれ、これから練習なんだけど―」
「すぐに戻るから」
わめく大輔を置いて、俺は近くのスーパーまで走った。
『二人っきりになって、何すんの？』
『彼女連れ込もうってわけ？』
大熊も大熊だけど、姉も姉だ。
俺はそのために原田を呼んだわけじゃない。
そもそも、姉が言い出したことじゃなかったのか。
俺は原田の事が好きだ。
だけど、彼女、ではない。つきあっているわけじゃないから。
付き合おう、と口にすることは簡単かもしれなかったけど、原田をそういう型にはめこみたくはなかった。
周りのやつらみたいな、ままごとのような、恋人を演じたいんじゃない。言葉じゃないところで、原田と繋がっていきたかった。そうなれると思った。
綺麗事かもしれないけど、そう思った。
原田と出会って。
バニラエッセンスは、一軒目の店にはなかった。仕方なく、俺は、もう一軒のスーパーに向かう。
「ただいま」
ようやく見つけたバニラエッセンスを買って帰ると、ドアは開いていたのに、誰の返事もない。
玄関にはあるはずの野球のシューズがなく、替わりに赤い靴が置いてあった。
どうやら、原田が来たらしい。
リビングに顔を出すが、原田はいない。ふいに二階で物音がした気がして、俺は自分の部屋に向かう。
『だって、彼女を、家族のいない休日に、自宅に呼ぶなんてさー。目的、バレバレじゃん』
大熊はそう言ったけれど、そんなことはない。
原田だって、そんな風に思ってないはずだ。
原田は、まれに見る天然だ。しかも、途方もないくらいの。
この前も、さりげなく好きだと伝えたのに、まったく伝わっている感じがしなかった。
少しは気づいてくれ、とじれったく思う。
だけどその一方で、そんな原田を愛おしく感じる。
『下着のライン見えてて』
…でも、もう少し。男ってものを、意識してくれても、いいとは思う。
案の定、ドアは微かに開いていた。俺は自分の部屋だからとノックもせずに開けた。
「原田？」
原田は確かに部屋にいた。
ベッドの上に立って、
その手に大熊の置き土産を握り締めながら。
「あ。えと。そ…の」
原田は頬を赤らめて、明らかに戸惑っていた。大きな瞳が、ぐるぐると回っている。
「もしかして、原田。大輔に、留守番頼まれた？」
「大輔？」
「野球少年の弟」
原田が頷く。
やっぱり。俺は心の中でそうつぶやいた。
「部屋に上がってろって？」
俺は、ため息をつこうと思ったが、ふいに原田の素直さに頬を緩ませて尋ねた。
「うん、あ。ごめんなさい。勝手に」
「いいんだ原田は悪くない」
あえて言うならば、バニラエッセンスを買い忘れた俺が、悪いのだ。
しかも肝心のスフレを、作り始めてすらいない。
ふいに視線を上げると、原田が持っているものが目に付いた。
原田の頬の赤らみ。
俺を直視できないでいる視線。
その理由であろう写真集を、俺は指差していった。
「それ、大熊の忘れ物」
「へ？」
「ほら」
俺は原田から写真集を取り上げて、裏を見せた。そこには、さっき大熊が書いていた名前があるはずだった。案の定、というのか、原田が自分の間違いに気づいて小さく声をあげる。
もう一度見ても、似ても似つかない。
それは、原田を傷つけるものに思えて、俺は写真集を机の上に投げた。
「ごめんなさい、委員長」
原田の沈んだ声が、響く。
原田は素直だ。
見知らぬ小学生に頼まれた通り、留守番をする。
無邪気だ。
何も気にせず、女性の水着の写真集を手に取るくらいに。
白いワンピースに華奢な体。微かに、見える下着のライン。
だけど。
やっぱり、少しくらいは、意識してほしい。
「だけど、原田。俺も男だから」
振り返ると、原田が顔を上げて聞き返してきた。
「だから？」
やっぱり原田の方が、何枚も上手だった。
「その、つまり。呼んだのは、たしかに俺だけど。
こういう、状況。原田は気をつけたほうがいいと思う」
「こういう状況？」
今度は戸惑わなかった。
俺は、はっきりと答える。
「…男と、部屋に二人っきり、とか」
一瞬、原田の顔がきょとんとする。それから、何か思い出したのか、目をぱちくりさせると、顔を赤らめて、突然目を瞑った。
しかも、両手は硬くスカートの裾を握っているし、頬は、緊張でこわばっている。
こればかりは、不意打ちだった。
「原田？」
俺の問いかけに、それでも原田は、はい、と目を瞑ったまま答える。
俺は白旗を揚げた。
「どう、したの？」
すると、恐る恐る、という感じで原田が片目を開けた。
「だから、つまり覚悟を決めたわけなんだけど…」
「覚悟って？」
「だから−」
原田は、口を開けたまま、いきなり顔を赤らめると、ベッドの上に正座した。
「ごめんなさいっ」
そうして、顔を俯かせている。
真っ白になりかけた頭を、俺は再度奮い立たせる。
覚悟って？
その前に、原田と話していたこと。
男の部屋に、勝手にのこのこ入るなってこと。
俺も男なんだからってこと。
…。
その時、もしかして、と俺の頭にある答えが過ぎった。
「原田」
「はいっっ」
「…俺の言った意味、わかってる？」
「ごめんなさい。わかって、ない、デス…」
「いや、謝ることじゃなくて…」
俺は一旦、言葉を止めた。
原田が一度は覚悟を決めたんだ。
だったら、俺は、その責任を取るべき、だ。
そして、小さく息を吐いて、腹を据える。
「つまり、俺は原田が思ってるような、品行方正の委員長じゃないこともあるんだってこと。わかる？」
目の前で原田は小首をかしげる。
やっぱり原田だ。全然わかってない。
ため息をつくより先に、俺は実力行使に出た。
原田の華奢な肩に手を置くと、少しだけびくっと反応があった。そうして、少し屈みながら、原田に顔を近づけていく。
原田はそれでも気づいてないのか、目を見開いたままだ。だけど、逃げはしない。
俺はますます原田に近づく。
原田に触れるまで、あと二十センチ、シャンプーのいい香りが鼻をくすぐった。
あと十五センチ、眉毛の中に、小さなほくろを発見。
あと十センチ。
原田の長いまつげを目に焼き付けて、俺はゆっくりと目を瞑ろうとする。慌てたように原田も目を瞑るのが見えた。
体全体が、原田を感じ始めたその時、いきなり怒鳴り声が部屋中に響き渡った。
「光一？あれ？帰ったの？スフレ作ってくれるっていうから急いでかえ―あらまあ」
慌てて原田から、体を離す。
部屋に入りかけたところで、にやけた顔つきの姉が案の定立っていた。
「ごめんなさい、お邪魔しちゃったみたいね、あたしってば―」
思わず俺は叫ぶ。
「姉貴っ」
それを聞いた原田は、もっと戸惑っているようだった。
「お、姉さん？」
裏返りそうなその声に、俺は慌てて説明をする。
「結婚して北海道にいった姉の苑子。今こっちにいるんだけど、スフレ作るって言ったら、来るってうるさくて―」
「何言ってるのよ、あんたが来る？って言ったから、来てやったのよ。
それにしても、光一も、まったくすみにおけないわね。こんな可愛い子を―」
そうでも言わないと、姉貴が納得しなかっただろうと言いたかったけど、姉の言葉は止まらなかった。だけどそんな時、真っ赤な顔の原田が叫んだ。
「お、おお、お邪魔しましたっっ」
そして、姉の脇をすり抜けて、部屋を、そして家を出て行ってしまった。
階下からドアの閉まる音が聞こえた瞬間、姉はふふふと微笑みながら俺に言った。
「残念だったわね、光一。まあでもめげないめげない！
また次のチャンス、あるわよ」
俺はそういう姉を部屋から追い出した。
「ちょっと、光一っ、スフレはっ？」
女には、別腹があるとは聞いたけど、と俺は姉の叫び声を聞きながら、大きくため息をつく。
今の俺には、とてもじゃないけど、スフレを作る気持ちにはなれない。
ましてや、食べる気にもなれない。
甘いバニラの匂いのするスフレなんて。