女の子の扱い方
夕食が終わって、食器を台所に片付けていると、
「そうそう光一。明日、苑子が帰ってくるんだって。いつものお願い、だそうよ」
と母が言った。
苑子は、９つ上の姉だ。先月結婚して、今は北海道にいる。
それを聞いた５つ下の弟・大輔が嬉しそうに聞き返す。
「何だ姉ちゃん、もう別居？」
小学３年生だというのに、言葉だけは立派だ。
これも、きちんとした家族計画を立てなかった両親のサプライズかもしれない。
「馬鹿なこと言わないの、大輔。
正彦さんが出張だから、一人で見知らぬ土地は可哀想だから実家にお邪魔になればって言ってくれただけよ」
自分の食器を洗い終え、俺が冷蔵庫を開くと、
「光一？」
と母が聞き返してきた。食事が終わったのに、何事かということらしい。
冷蔵庫に目を走らせて、俺は答える。
「明日の夕方には着くんだろ。だったら、今から準備しないと」
姉のいう『いつもの』は、俺の作るシュークリームのことだ。
働いている為に、冷蔵庫にはいつも冷食ばかりの母が、困ったように答えた。
「そうね。あら、でも大変。卵が切れちゃってるのよ」
「じゃ、明日練習から帰ってきたら作ることにする。姉さんにはそう伝えておいて」
「はいはい」
姉は北海道に嫁に行くまでの間、月に一度は俺の作った菓子を食べていた。
もともとは、姉が当時付き合っていた恋人の為に、シュークリームを作っていたことがきっかけ。不器用な姉が、何度焼いても膨らまないシュークリームの皮を諦め、台所に残されたのは、中身のカスタード。
捨てることも出来ず、かといってそれだけではどうにもできないそれを、少年サッカーから帰ってきた俺に発見された姉は、レシピを渡して、シュークリームの皮を作るように命令した。試しに作ってみたら不思議とそれは膨らんだ。
料理と違って、菓子は分量を少しでも間違えれば、膨らまないし、固まらない。
それに捏ねたり、叩いたり、意外と力もいる。
何より無心になれるところもあって、気づけば月に一度は菓子を作っている。
残念ながら、俺は甘いものが苦手で、家でもそれを食べるのは姉だけだった。
プロのサッカー選手になれなかった時は、あんたケーキ屋開きなさい。
というのが、姉の口癖だ。
曲がりなりにも、俺の作るものは、それなりに美味しいものらしい。
その姉も、結婚式が決まると、それまではダイエットするといって、食べなくなり、持て余した俺はそれを「姉の手作り」と称して、サッカー部にもって行き始めた。
それも、北海道に姉が嫁に行ってからは、「原田の手作り」ということには、なっている。
原田は、クラスメートで、サッカー部員の大熊と家族以外、唯一俺の菓子作りのことを、知っている女子だ。そして、姉と同じく、俺の作る菓子の大ファンらしい。
大熊曰く『サッカー部の発展の為』に、秘密にされたこの趣味を、原田が知ったのは偶然だったけれど、以来、原田とはよく一緒に帰ったり、電話で話したりするようになった。
おかげで、巷では付き合っているという噂が流れているらしい。
実際は、付き合うどころか、告白すらしていない。
何故、告白しないのか。
大熊には聞かれるけど、正直、その必要に迫られていないというか、必要だと思っていない。第一、俺の気持ちは、もうずっと前から決まっている。
午後六時。チャイムもなく、玄関のドアが開いた。
「ただいま」
家中に響いたその声に、かけつけたのは大輔。
「お帰り、姉ちゃん」
「しばらく見ないうちに大輔も大きくなったわね」
「姉ちゃん、ちょっと太った？」
「これも幸せな証拠よ。あ、光一。作っておいてくれた？」
姉は大輔の後ろに立っている俺に気づくと、そう尋ねてきた。
「ごめん、これからなんだ」
久しぶりに見る姉は、たしかにふっくらしていて、幸せそうなオーラを放っていた。
その証拠に、謝る俺に、
「まあいいわ。あんたの作るお菓子、美味しいから。待ってる」
と答えた。
先に作るのは、シュークリームの皮。
油断をすれば、いくら焼いても膨れない皮。
手際よく、鍋にバターなんかを入れて火にかけていると、姉が現れた。
「聞いたわよ。あんた、最近女の子からよく電話がかかってくるんだって？彼女？」
情報源は、おそらく大輔だ。
母は仕事からまだ帰ってきていない。
「違う。まだ、そんなんじゃない」
ふーん、と言って、姉は続けて質問をぶつけてくる。
「その子、かわいいの？」
「…まあ」
すると、姉は顔を緩ませて言う。
「何あんた。好きなんだ、その子のこと」
バターが溶けて煮詰まってきた。火を止めて、急いで俺は薄力粉を入れる。
ここが遅くなったら、失敗にひとつ近づく。
無心で捏ね始め、答えない俺を無視して、姉は一人で盛り上がっていた。
「よかったー。
よく、お母さん言うじゃない。光一は理想の息子だって。
たしかにあんたは、勉強も出来るし、スポーツも出来るし、真面目だし、優しいし、そして我が弟なだけに、見栄えもいいし。しかも、家事もできる。
だから、当然モテるのに、誰とも付き合ったことないから、あたし、ちょっと心配してたのよ」
「あのさ、姉さん」
「はい？」
俺がそういうと、姉はしゃべるのを止めた。
「ちょっと、そこのボール取ってくれる？」
次に入れるのは、ボールに準備していたほぐした卵。
姉は小さくため息をついてボールを俺に渡す。
「はいはい。まったく…可愛げないんだから」
卵は少量ずついれる。
そうしないと、分離して、あとが厄介だ。
「付き合ってないなら、気をつけなさいよ。
いや、付き合っていてもね。
女心と秋の空、っていうでしょう？
今は光一と仲良くしてても、ある日突然、別の人を好きになったりするものだから。特に、成長著しい中学生の女の子はね」
木べらでかき混ぜながら、俺は思う。
原田は、そうじゃない。
器用そうに見えるけど、本当はすごく不器用で。
そして、恐ろしく鈍感だ。
「それに、言わなくても分かる、なんてのは男の言い分。
女の子は、言ってもらわないとわからないもんなの―」
「姉さん」
「はい？」
またも言葉を遮られ、姉は口を止めた。
「オーブンの天板、出してくれる？」
少しして、姉は乱暴に天板を俺に差し出した。
「はいはいっ。…ほんと、そういう意外と自分勝手なところ、直した方がいいわよ、あんた。あと、地味に頑固なところも。
その子も可哀想よね。きっと、あんたに振り回されてるんだろうから」
それは逆だ。
原田の表情、仕草、言葉。
全てに一喜一憂されてるのは、こっちなんだから。
しかも、相手はまれに見る天然。
勝ち目なんか、到底ない。
「姉さん」
腕を組んだ姉が、投げやりに答える。
「はいはい、今度は何かしら？砂糖？それとも、泡だて器？」
「心配してくれてありがとう」
え？と言って、きょとんとしてる姉に、俺は言う。
「でも、大丈夫だから。
仮に誰かにとられるようなことがあっても、絶対に俺が取り戻してみせるから」
暫くして、姉のため息がまた聞こえた。
「そういう、無駄にかっこいい言葉吐くところも、あんた直した方がいいわよ。絶対」