選手権の県予選決勝。
　優勝を決め、選手権出場が決まった凪浜高校は、試合終了後のお祭り騒ぎを終えて、そろそろ地元に帰る仕度を始めていた。
　静まり返っているグランドを目の前にして、柳田は萌子が自分の探し物を手にして、立ち尽くしているのに気づいて、声をかける。
「どうした、沢木」
　選手たちは皆、バスに乗り込み始めている。柳田がこうして再びベンチに戻ってきたのも、忘れ物をしたからだった。
　昨年の覇者とはいえ、毎年出場できるほど、選手権は甘くない。
　知らず知らずのうちに、柳田にもそのプレッシャーがかかっていた。
　そして出場が決まり、それが緩んだ瞬間、柳田は自分のタオルをベンチに置き忘れたことに気づいたのだ。
「この競技場って、観客１万五千くらいですよね」
　萌子は柳田を振り返ることもなくそう尋ねた。
「ああ」
「ってことは、ここの四倍くらいか」
　萌子はそう呟くように言ってから、ようやく柳田の方を振り返った。
「私、行ったことないんですけど、すごいんでしょうね。国立って」
　観客数のことかと柳田が、口を開きかけたとき、
「柳田」
と中のほうから小山が顔を出した。
　思わずムッとした表情だったのか、小山は、
「ごめんな、お前にお客さんだ」
と、済まなそうな表情で言った。



　客というのは、凪高の生徒だった。
　だが、柳田は彼女を知らない。
　楚々とした女の子は、派手さはないものの、整った顔立ちをしていた。そして彼女は、自分の名前を告げてから、あの…とか細い声で何度もためらって、そしてはっきりと柳田に告げた。
「付き合って欲しいんです」
　てっきり、誰かの、例えば横田とか朔哉とかのファンで、取り次いでほしいと言われるのかと思っていた柳田は、思わず大きな口を開けたまま、静止する。
　だが彼女は、そんな柳田に真剣に告白を続けた。
「…ずっと、憧れてました。柳田先輩のこと」
　今日はエイプリル・フール、でないのは、確かだ。
　柳田は、そっと頬をつねってみた。
　夢でもない。それも確かだ。
　ということは、これは現実？
　それまで柔らかな靄がかかっていた彼女の顔が、その瞬間はっきりと柳田の目に飛び込んできた。潤んだ瞳が、赤らんだ頬が、まっすぐに柳田に向かっている。だがその姿は、柳田の思い描く姿とは違っている。
「もっ、申し訳ない」
　柳田はそう叫ぶように言うと、思い切り頭を下げた。
「今はサッカーのことで頭がいっぱいなんだ。すまない」
　柳田の視界の端には、彼女の影が見えている。
　しばらくして、彼女が答えた。
「いえ」
　柳田がそれでも顔を上げずにいると、彼女は震える声で、それでも精一杯明るい声で言った。
「選手権、頑張ってください。応援してます」



最後になっていた柳田が慌ててバスに乗り込むと、小山と笠間が心配そうな表情でこちらを見ている。柳田はふんっと大きく息を吐くと、笠間の隣の席に座った。すると後ろの方から田島の声が聞こえてきた。
「え？ふっちゃったわけ？ヤナギさん」
「おい田島、声が大きいって」
　シーッと言いながらそういっている朔哉の声も、柳田には筒抜けだったが、それでも田島はあっけらかんと答える。
「つーか皆知ってるよ。いかにも、だったじゃん」
確かに小山に呼ばれて行ったとき、周りで部員たちがニヤついた顔をしていたことを柳田は思い出した。
　すると司がわざと聞こえるような大きな声で言った。
「結構かわいかったのにな。ヤナギさんにあんなチャンス滅多にねぇのによ」
「司それは言いすぎだって」
「だってヤナギさんにとって、人生最初で最後の告白だったかもしれねぇんだぜ？」
　司のその一言に、朔哉も思わず黙り込む。
　その雰囲気を察してか、俊平がまとめて言った。
「まあまあ。人生もてる時は三回あるっていうし。ヤナギさんの将来だって、これから明るいんじゃねぇの？」
　ふざけるな、と立ち上がって怒鳴りつけようとした柳田のひとつ後ろの席で、いきなり小山が立ち上がると、振り返って朔哉たちに言う。
「柳田のピークは幼稚園らしいしよ」
「え？そうなんですか？」
「逆プロポーズを五人から受けたらしいから」
　なっ、と小山は明るく前の席の柳田に言う。
　お前まで…、と怒りで震える柳田に気づいていないのか、小山は続けて言った。
「二回目が、小学校の時で、バレンタインにチョコレートを３人から渡されたんだってさ」
「え？…てか三つ？」
「人数も減ってるし…」
　司と田島がそう呟いたところで、柳田はようやく立ち上がって怒鳴りつけた。
「うるさいっ」
　後ろの小山と、その後ろの司たちはきょとんとした表情を浮かべている。
「お前ら、俺のことはどうでもいいっ。黙って選手権のことでも考えてろっ」
　そう叫んで、勢いよく座ると、隣で笠間が心配そうな表情を浮かべて柳田を呼んだ。
「柳田」
「なんだっ」
「俺は、正しかったと思うよ。お前はそんなに器用じゃないし―」
「うるさいっ」
　柳田は真っ赤な顔でそう答えると、ぷいっと笠間から顔を逸らし、それからバスが凪浜に着くまでずっと黙っていた。


　凪浜につく頃には、すっかり日は暮れていた。
　バスから荷物を降ろして、一旦サッカー部は解散した。
　勝利の祝杯をコーラで上げに街に出る部員もいれば、後片付けのある部員もいる。
　柳田は、一人ユニホームを抱えて部室に向かおうとしている萌子の後ろを追いかけた。
「…沢木」
　部室にはまだ誰もいない。
　柳田の声に、萌子はユニホームを机に置きながら、素直に返事をする。
「はい？」
「さっき、国立に行ったことがないとか言ってたよな」
「はい」
　萌子は柳田の言いたいことがわからずに、ただきょとんとして柳田を見つめる。だが、その視線が、返って柳田の頬を赤く染めていく。
　柳田は決心したように、大きく息を吸い上げると、口を開いた。
「…俺がつれ―」
　だがその先を続ける前に、ドアが荒々しく開いて、いきなり知朗が飛び込んできた。
「萌子っ」
「わ、どうしたの知朗？」
「いってー、すりむいたーっ」
　知朗はそういうと、床にゴロンと転がる。確かにその膝は、赤くなっていた。
「どうして？試合は終わったのに」
　思わず側にかけより、萌子はじっとその膝を見つめた。
「ケンとプロレスしてたんだ」
「まったく、しょうがないんだから。もう」
　小さく溜息をつくと、萌子は立ち上がると、棚から救急箱を取り出している。
　柳田は大きく吸い込んだ息を、大きな溜息に変えて、天井を仰いだ。