「困ったことになっちまった…」
　グランドを眺めながらひとりため息をつく柳田に、思わず萌子は手を止めて話しかけた。
「どうしました？柳田先輩」
「…沢木か」
　肩をがっくりと落とした柳田の表情は、いつになく落ち込んでいる。
　萌子の記憶によれば、昨日までの柳田は、来週のトミカカップのSS席のチケットを手に入れたとかで、浮かれていたはずなのだ。
　柳田はもう一度大きくため息をつくと口を開いた。
「実は、妹が―」
　その言葉に、そばを通りかかっていた司が思わず口を挟む。
「げ、ヤナギさんに妹？」
「おい、大槻。俺に妹がいてもおかしかないだろう。
　そもそも『げ』とは何だ、『げ』ってのは」
　しかし司は睨む柳田には答えずに、逆に質問を投げかけた。
「ヤナギさん。その妹って、まさかヤナギさんと似てるとか？」
「いや、俺は母親似で、妹は父親似だが。おい、大槻。その『まさか』ってのもなんだ」
　それを聞いた司をはじめ、そばで聞き耳を立てていた理香と篤志までもがほっと肩をなでおろす。
「そりゃよかった」
「ほんとほんと」
「…どういう意味だ？」
　そう柳田にギロリと睨まれた理香だったが、さらりと話を元に戻した。
「まあまあ、それで、どうしたんです？その妹さんが」
「ああ、いや、今中三で、来年は凪高受けたいって言うんだ」
「へぇ。でも、別に悩むことじゃないでしょう」
　思わず篤志が答える。
　海を目の前に校舎を構える凪高は、地元でも人気があるし、進学校でもある。
　しかし、柳田の次の言葉を聞いた萌子たちは、思わず声を上げた。
「それがなあ、凪高に行って、サッカー部のマネージャーやるっつーんだ」
「えー！」
　思わず言い返したのは理香だった。
「定員すでに満たしてるんでだめですよ、ダメ」
　篤志までも思わず言い返す。
「そうやって自分が卒業しても、スパイ送り込もうったって、そうはいかないっすよ」
　しかし柳田は二人を一蹴した。
「そんなことするかっ。俺は反対してるんだっ、話を最後まで聞けっ」
「だから、定員満たしてるから無理だって言えばいいじゃないですか」
　危機感を感じるのかそう言い返す理香に、柳田は大げさに頭を抱えると天に祈るように答える。
「それが、部員数が決まってないのに、マネージャーの数が決まってるのはおかしいって、監督に直談判するらしい」
「…確かに、正しい意見ですね」
　思わずそう言った萌子を、理香が慌てて肘で小突く。
　が、柳田は気にする風もなく話を続ける。
「地味だし、臭いし、雑用だし、きついからやめろって言ってるのに、あのバカまったくもって聞く耳を持たない」
　柳田の言い方にムッとしたように理香が言い返した。
「確かに仕事は地味かもしれないけど、臭いのは選手の汗だし、雑用言いつけるのは、だいたいが柳田先輩なんですけど」
「何か言ったか、小池」
　最後の一言に柳田に睨みつけられた理香は、はっと気づいて作り物の笑顔を見せる。
「イイエ、ナンデモアリマセン」
　何か一言いいたそうな柳田だったが、そもそもの問題を思い出したのか、深くため息をついた。
「とにかく、あいつは言い出したら聞かない奴なんだ」
　やっぱり兄妹じゃないと萌子は思ったが、あえて口には出さなかった。
　すると、ずっと腕組みをしたまま黙り込んでいた司が口を開いた。
「ヤナギさん、もし説得させられたら、どうします？」
「なぬ？大槻」
「条件次第じゃ、引き受けてもいいっすよ」
　司はそういうと、にやりと微笑んだ。



　それから一週間後。
　グランドを見渡せるフェンスの前には、見知らぬ制服を着たおかっぱ頭の中学生の姿があった。
「へぇ、あの子が柳田さんの妹」
　この前の話を理香から聞いた朔哉がそう口にする。
「っつーか、めちゃくちゃ似てんじゃん」
「可哀そうに」
　後ろにいた篤志と理香がそう口ずさんだ。
　確かに柳田はそれぞれ、父親似と母親似だとはいったものの、結果としては十人が十人、柳田の妹だとわかる風貌をしていた。
　朔哉は小さくため息をついて、隣に立っていた俊平に尋ねた。
「で、司はどうするんだ？」
　その視線の先には、さりげなくグランドの片隅から柳田の妹の姿を眺めている司をとらえている。
　俊平は肩をすくめて答えた。
「さぁね」



　その頃萌子は、忙しなく仕事をしていた。
　それもこれも、柳田からの命令である。
　つまり、マネージャーという仕事が、いかに大変かを妹に見せるけて欲しいということで、わざとらしく柳田の妹から見えやすい位置で、次々と降ってくる仕事をこなしていたのだ。
　…だけどこれって、もしかして柳田さんからのしごき？
　そうも考える萌子の耳には、妹を説得する柳田の声が聞こえてくる。
「わかるだろう。お前が思ってるほどマネージャーの仕事は簡単じゃないんだぞ」
　これでわかったと言ってもらえたらな、と思う萌子の耳に、突然司の声が飛び込んできた。
「ヤナギさん、ちょっと…。あれ？」
　わざとらしいくらいの優しい声に、萌子は思わず振り返る。
　すると、司が普通を装って、柳田兄妹に近づいているところだった。
　声を掛けられて、ようやく気付いたという様子で、柳田は司に声をかける。
「大槻か。ああ、妹の久仁子だ」
　紹介された久仁子は、ぺこりと司に頭を下げた。
「久仁子です」
「へぇ、久仁子ちゃんって言うんだ。あ。俺は二年の大槻」
　挨拶も早々に、司が笑顔を久仁子に見せる。
　甘い声とその笑顔に、久仁子の顔がぱっと赤くなるのがわかる。
　…ああやって、いつも女の子くどいてるのかな。
　そう思う萌子の耳に、今度はグランドの中から笠間の声が響いてきた。
「おい柳田ーっ」
　わかった、という様子で笠間に手をふり、柳田は久仁子になかば怒鳴りつける。
「とにかくわかっただろ。お前はさっさと帰れっ」
「お兄ちゃんには関係ないでしょうっ」
　むっとして言い返す久仁子に、思わずグランドに向って歩き出していた柳田の足が止まる。
　が、笠間が慌てたように駆け寄ってきた。笠間は柳田の肩を軽くたたいて、久仁子の方を軽く見ながら何かささやいているようだ。
　…笠間さんまで、巻き込んだのね。柳田さんってば。
　萌子はそう心の中で呟きながら、残された久仁子と司にそっと視線を向ける。
　が、その前に背中から声をかけられた。
「萌子？何やってんの？」
「せ、成っ。…ちょっと静かに」
　思わず口元に人差し指をあてて、黙るようジェスチャーをするものの、成はそれに気付くことなく、萌子が見ていた方向に視線を向けるとあれ？と呟いた。
「あれ…もしかして、ヤナギさんの妹とか？」
「いいから、黙って」
　隠すことなく視線を投げる成の腕を取ると、萌子は小さな声ではっきりそう言った。



　二人だけになったところで、司はにこやかに口火を切った。
「で、久仁子ちゃんはどうしてここに来たわけ？」
「私、凪高サッカー部のマネージャーになりたいんです」
「マネージャー？またどうして」
　まじかよ、あんな仕事という心の声を隠して、司は首を傾げる。
　久仁子は真面目な表情のままで答えた。
「お兄ちゃんの影響でサッカーが好きなのもあるけど、マネージャーって素敵じゃないですか。選手を支える仕事するのって」
「選手を支えるねぇ。でも、地味な仕事だぜ」
　思わず本音がぽろりと出たが、久仁子は気づくことなく力強く言い返した。
「それでもいいんですっ」
　その声を聞いて、司はさらりと答えた。
「いや、俺はよくない」
「え」
　戸惑ったのは久仁子の方だ。
　司はというと、フェンスを握る久仁子の手の、すぐそばに体をもたれかけ、視線をグランドに向けて、艶っぽい声を出して答えた。
「久仁子ちゃんみたいな子が、野獣みたいな部員の中にひとりでいるなんて。気が気じゃないよ」
「え…」
　そうして肩越しに振り返るように久仁子にちらりと視線を送る。
　久仁子の頬がさらに赤くなる。
　司の言葉をどうとらえていいのか、だけれどもきっと好意的に言ってくれてるんだという気持ちがありありとわかる表情だった。
　それを視界の端にとらえると、司はにっこりと微笑んで、耳打ちするように、すっと顔を久仁子に近づけた。
「それに、うちの部、かわいい子はマネージャーになれないことになってる」
　久仁子は緊張の余り、その場で硬直して慌てて答える。
「でっでもっ、今のマネージャーの人たち皆かわいいじゃないですか！」
　噂には聞いていたけれど、本人たちを見た時、久仁子は正直にそう思って、気おくれしたのだ。
　お兄ちゃんがいつもバカバカって言ってるサワキモエコなんて特に！
　だけど、このイケメンな人からすると、もしかしたら綺麗の基準が普通の人より全然高いのかもしれない。
　大槻サンだっけ。
　背も高いし、ちょっとサッカーやるにはチャラチャラしてる感じもあるけど、でも笑顔は優しくて素敵だし…。
　そういえば、二年にサッカーがすごく上手でかっこいい人がいるって聞いたけど、それって大槻さんのこと？
　司はくすりと笑ってから、さらりと言った。
「そうか？俺は、久仁子ちゃんの方が断然かわいいと思うけど」
　ボッと音を立てそうなくらい、久仁子の顔が赤くなるのがわかる。
　心の中で司がほくそ笑んでいると、
「おい久仁子、まだいるのかっ」
と半ば本気で怒っている柳田の声が聞こえてきた。
　司は、そのまま優しく久仁子を諭す。
「ホラ、お兄ちゃんも怒鳴ってることだし。今日のところは帰ったら？」
「はいっ」
　顔を俯かせていた久仁子だったが、司にそう言われると、素直に頷いた。



　翌日、練習の終わったグランドで柳田から話を聞いた萌子は、ほっと肩をなでおろしていた。
「じゃ、マネージャーはあきらめてくれたんですね。妹さん」
「ああ」
「よかったあ」
　そう答えたのは、理香だ。
　理香は本気で久仁子の入部が怖かったようだ。
「そういえば、大槻先輩の交換条件ってなんだったんですか？」
　思い出したように萌子がそう尋ねると、柳田は苦い表情を見せて、忌々しそうにグランドの土を蹴った。
「チケットだよ、チケット」
「もしかして、トミカカップ？」
　人気の大会のため、チケット代の高さもあるが、代わりのチケットはもう手に入らないだろう。
　柳田はぎりぎりと歯をかみしめて呟いた。
「あいつも足元見やがって…。
　しかし、久仁子のやつ、最近様子がおかしいんだよな。妙にぼーっとしてるかと思えば、いきなりニヤついてやがる。
　受験生だってのに、あれで受かるんだか…。
　あれ？久仁子？」
　柳田はそう言うと、フェンスの方に視線を向ける。
　すると、久仁子が勢いよくグランドに駆け込んできていた。



「大槻せんぱーい」
　部室に引き上げようとしていた司は、突然聞こえてきたその声にふりかえったところで、ギョッとした。
「うげ、ヤナギさんの妹」
　久仁子は司の隣にいた俊平を突き飛ばすようにして隣に立つと、にこにこと笑顔を向けて答えた。
「いやだなぁ、久仁子って呼んでくださいよぅ。あ、この前みたいに、久仁子ちゃんでもいいですよ」
　それを聞いた俊平が、くすっと笑っている。
　そんな俊平を睨みながら司は久仁子を見下ろしてわざとらしく言い返す。
「何だよ、柳田妹」
「あたし決めたんです」
「はいはい、そりゃよかったね―」
　そのまま流そうとした司だったが、久仁子はその先に回り込んで大声で言った。
「あたしっ、大槻先輩のマネージャーになります！」
「はぁ？」
「だから、これからは大槻先輩の為に頑張ります！」
　思わず返す言葉を無くした司の前に、柳田が全速力で駆けこんでくると、そのまま怒鳴った。
「久仁子ぉっ。何言ってるんだ、そいつは女ったらしで、ろくでなしの野郎だ」
　その言葉にムッとした司が言い返す。
「ヤナギさん。ろくでなしってのは言いすぎじゃねぇ。だいたい誰のおかげで―」
「バカ野郎、そのことは言わねぇ約束だ―」
　怒鳴り合いにらみ合う司と柳田だったが、その柳田を久仁子がいきなり突き飛ばして言った。
「お兄ちゃんは関係ないでしょっ」
「くっくにっ―」
「大槻先輩、よろしくお願いします」
　ぺこりと頭を下げる久仁子だが、司は大きく欠伸をすると、ちらりと柳田を見て言った。
「いや、兄貴の言うことは聞いた方がいいと思うぜ」
「関係ないです。こんなアンポンタン」
「アンポンタン？」
　ん？と眉をひそめる司に、大きく頷いた久仁子は説明する。
「昨日だってお母さんに怒られてたじゃない。臭い靴下、勝手に洗濯機に放り込むなって。毎日言われてるのに、いつも忘れちゃってさ」
「柳田先輩、かわいそう…」
　遠くから様子を見ていた理香がぽつりとそう呟く。
　慌てて柳田が怒鳴った。
「黙れっ、おいっ久仁子っ」
　悲痛な叫びを無視して、久仁子は司の腕を取る。
「だから、こんなのは置いておいて、ね。ツッキー先輩」
「ツ、ツッキー？」
　萌子も思わず理香と顔を見合わせる。
「…おい」
　冗談じゃねぇよ、というように司が久仁子を睨んだが、久仁子は気にすることなく笑顔でこたえる。
「だって、その方が親しみ易くていいじゃないですか。司で、ツッキー。ね？」
　思わず萌子もため息をつく。隣で理香と篤志も同じようにため息をついた。
「流石というか、何というか」
「あの柳田先輩も、手を焼くはずだ」
　睨み続けていた司だったが、久仁子の表情が変わらないと気づくと、するりと久仁子の腕から逃げだした。
「あ、ちょっと、ツッキー先輩っ」
　司には珍しく、かけ足になりながら顔をひきつらせて答える。
「…悪いけど、マネージャーなら間に合ってるから」
「そんなぁ。人数は多くても、損することはないですよ」
「…おまけにこれからデートだから。それじゃ」
　ついに司は走り出す。
　だが、久仁子もそんな司を追いかける。
「まってツッキー先輩っ」
　その様子を見て、思わず朔哉が呟いた。
「あのマンツーマン、ヤナギさんそっくりだな」