立ち上がり、校歌を歌う。
　見上げればそこにあるのは、抜けるような青い空ではなく、体育館の天井。
　自分が着ているのは、真っ青な凪浜のユニホームではなく、三年間慣れ親しんだ制服。
　周囲から漏れ聞こえる女生徒たちのすすり泣く声も、歓喜の叫びではない。
　壇上に掲げられた横断幕には、卒業式の文字が味気なく書かれている。
　今日で、最後か。
　小山はそう思いながら、校歌を歌う。


　校歌が歌えると言うと、驚いたのは周りのクラスメートたちだった。
「真面目だからな、小山ってば」
「偉いよな、ほんと」
　実際はそんなことではない。
　選手権本選では、勝利を収めた学校は、必ず校歌を歌う。上位になれば、テレビでも放送され、しかもそれはテロップ付なのだ。
　実際はテープ流れるけど、映ってるのに、歌詞間違えたり、歌えなかったら恥かしいだろう。
　初めて出場した年、三年生がそう言った事から、一年生は皆校歌を練習させられたのだ。そして、実際にその年、小山はそれを競技場のスタンドで大声で歌った。
　翌年は、国立のグランドで、青空の下、歓喜の涙を流しながら。
　そして、今年は、結局歌うことすらできなかった。
　一年間歌っていなかったのに、記憶には残っているのか、メロディーを聴けば、すぐに歌詞を思い浮かべることができた。
　まさか、最後に歌う場所がここでなんて思ってなかったけど。
　心の中でくすりと笑いながら、小山は校歌を無事歌い上げた。



　式も終え、昇降口から校門へと続く道には、たくさんの生徒が溢れていた。
　その中で、小山たちは、朔哉に呼び止められた。
「小山さん。今までありがとうございました」
　差し出された手を握り返すと、朔哉は同様に隣にいる柳田にも手を差し出した。
「柳田さんも、ありがとうございました」
「朔哉。
　後のこと、頼んだぞ」
「はい」
　だが、少ししてにっこりと笑う朔哉の顔が、わずかに歪む。
「…ヤナギさん。まだ何か？」
「え？」
「いや。手、離してくれないから」
　しかも心なしか、柳田の腕は力んでいるように思えて、思わず小山が笑いながら柳田の腕を掴む。
「まあ許してやれよ、朔哉。
　娘を取られた気持ちなんだ、今の柳田は」
「嫁にやるくらいにね」
　横から笠間がちゃちゃを入れると、柳田が顔を赤くして抗議した。
「うるさいっ」
「で、新妻の沢木はどこに？」
　言われた朔哉の頬が緩む。
「他の一年と一緒に、三年の先輩たちに、部員からの贈り物、配ってます」
　朔哉が微笑んだ。その笑顔が幸せの証のようで、柳田は奥歯をギリギリと鳴らす。
「柳田、お前呼ばれてるぞ」
　思わず小山がそう指差した混雑の中で、柳田に手をふるクラスメートの姿がある。歩き出した柳田の背中を見ていると、今度は笠間もクラスメートから声がかかり、小山は久しぶりに朔哉と二人きりになった。
「どうだ、新しいチームは」
「ちょっとフォーメーション変えたんで、色々問題が出てきたってところですね」
　そうか、と小山は答える。
　ゾーンディフェンスに変えたという話は、石橋からも聞いていた。
　新しい未来に、小山は少しだけ嫉妬する。だが、それもすぐに微笑みと同時に消えていった。
「またきっと、今年らしいチームになるんだろうな」
　ツートップは、二年になる右京と知朗のコンビだ。
　入学当時はその線の細さとスタミナを危惧された右京も、今ではそれなりの体つきになっているし、知朗は身長を諦めて、スピード力にいっそう磨きをかけ始めたという。
　中盤には、冷静に頭を使ってプレーをする俊平がいて、同じようにサイドにはいかに派手なプレーをするかを考えつつ、実に緻密な計算をしている司がいる。
　バックのリベロには、最近実力が急上昇中の成がいて。
　何より、このスタープレイヤーの朔哉が中央に構える。
　何かを起こしそうなメンバーだ。
　そのメンバーをまとめなければならない役目は、きっと想像以上に重いだろう。
　加えてかつて全国制覇をした高校としての看板も、寄せる期待と共に背負わなければならないのだ。
　だが、俺は。そのひとつをずっと放棄していた。
「すまんな、朔哉」
ふいに小山がそう謝ると、え、と驚いたように朔哉が聞き返した。
「この一年、俺はお前に甘えすぎてた」
「…小山さん」
　何かを起こしてくれるという期待を、俺はいつだって朔哉にかけていた。
　自分にはできないからと。
　そして、朔哉はいつだってそれに答えてくれていたのだ。
　だけど甘えすぎていた。
　それが、今年の選手権の結果だと、少なくとも、小山はそう思っていた。
　俯いた小山に、朔哉は明るい声で言う。
「でも、小山さんいなかったら、まとまってなかったですよ。
　あんな個性の強いメンバーで」
　振り返ると、たしかにこの一年、色んな事件があったように思う。
　それが今年のメンバーにあるのか、
　それともキャプテンという立場から気づいたことなのか、小山にはわからなかった。
「ありがとう」
　小山はそう答えて、少し前にいる笠間と柳田を見つめた。すると、理香たち一年が突然二人を取り囲み、いきなり胴上げを始めた。
「おい、やめろって」
「いいじゃないですか、ヤナギさんっ。卒業祝いですよっ」
「じゃ、いくぜー」
「うわっ」
　ワッショイ、ワッショイ。
　歓声があがり、一際目立つ中で、柳田は高く空に舞い上がっている。初めは強張っていた表情も、洗い流したかのようにすっきりとした笑顔だ。
「じゃ、次っ。笠間さんっ」
「え、俺はいいって―」
「何言ってんですかっ。笠間さんこそ、影の監督なんだからっ。
　ほら皆っ、持ち上げてっ」
　理香の掛け声にあわせて、今度は笠間が空に舞い上がる。
　その様子を見つめながら、小山は思う。
　そして、この一年は。あの二人がいなければ、何もできなかった。
　ありがとう、笠間。
　ありがとう、柳田。
　小山は僅かに微笑んで、朔哉に向き直る。
「沢木のことも、頼むな。っていうか、俺が頼むことでもないけど。
　実は、彼女をマネージャーにすること、俺も柳田と一緒で反対だったんだ」
　もっと言ってしまえば、当時の幹部は笠間以外の全員が萌子のマネージャー入りを反対していたと言ってもいいかもしれない。
「なにせ野郎だらけの部に、女の子が突然入ることになるだろ。しかも、可愛い子が三人。
　マネージャーと言っても、男と同じ扱いできないし、だからと言って特別扱いもすべきじゃないしさ、そういうのが難しいと思ったんだ。
　小池と椎名は、それでもどこかでその違いを認めて、一歩も二歩も下がるし、男に任せるけど、沢木は違う。逆に、他人より一歩も二歩も、相手に踏み込んでいく。しかも、全力で。意識してないんだろうけど、人によっては、勘違いするヤツも出てくるだろうし。ましてや、俺たちは未熟な高校生だから、それがプレーに影響しないとも限らない。情けないけどな」
「小山さん―」
　驚いた表情の朔哉に、小山はにっこりと笑う。
「けど、結局一番気を使ってたのは、柳田だろうな、きっと。
　だけど、お前がいれば、そんな心配もいらないしな。
　とにかく、おめでとう」
　卒業生からおめでとう、と言われて逆に朔哉は面食らう。一瞬、驚いた表情を見せてから、笑顔になって答えた。
「ありがとうございます」
　そして、小さく呟く。
「まだまだ、これからですけどね」
「え？」
「いや、何でもありません」
　含んだ笑いを見せる朔哉を、不審そうに眺めていると、前方から足音と共に、萌子が大手を振って走ってくる。
「小山さーん」
「噂をすれば、何とやらだ」
　萌子は、小山の前に立つと、息を整えてから、チューリップの花束を差し出した。
「ご卒業おめでとうございます。
　これ、部の皆からのお礼です」
「ありがとう」
「大学行っても、頑張ってください」
「ああ。沢木も、朔哉と一緒に、選手権頑張ってくれよな。来年の正月の予定は空けておくから」
「「はい」」
　萌子と朔哉の声が重なって、二人は思わず目を合わせて、くすりと笑った。
　まったく、こっちが恥かしくなるくらい初々しいカップルだことで。
　すると、胴上げから戻ってきた柳田が、そんな二人の様子を見て立ち尽くしているのに、ようやく萌子が気づいた。
「あ、ヤナギさんっ。ヤナギさんも、おめでとうございます。これ、部の皆からの…。
　どうしたんですか？」
「何でもないっ」
　柳田は突然顔を腕で隠すと、くるりと背中を向けたのだ。
　小山はその肩に手を置くと、
「ごめんね、柳田ってば感激屋だから」
と答えた。
「え？ヤナギさん泣いてんの？」
　そこで朔哉の背中越しに、ひょいと篤志が顔を出した。
「違うっ、おい日比野っ、お前が何で突然間に入ってくるんだ」
「何でって、ひどいっすね。でも、残念ながら、俺は小山さんに用事があるんですよーだ」
「俺？」
　はい、と篤志は大きく頷いた。ニヤリと笑うその顔に、小山は嫌な予感を覚える。その瞬間、篤志の後ろから一年部員がずらりと顔を覗かせる。
「じゃっ、行くぜっ」
「胴上げだっっ」
「へ？俺はいいって、日比野―」
「キャプテン胴上げしなくて、どうするんですかっ、ほらいくぞっ、小山さんでラストだっ」
　抵抗する余裕もなく、小山の体は空を舞っていた。
　ワッショイ、ワッショイ。
　掛け声と共に、目の前の空が、少しだけ、近づく。
　手を伸ばしたら、何かが掴み取れそうなそんな気がした。



　胴上げも終わり、床に座り込んだ小山の隣では、萌子が顔を背けたままの柳田に、そっとハンカチを差し出していた。
「ヤナギさん、これどうぞ」
「優しいな沢木」
　小山がそういうが、柳田はそれを払う。
「いらん、こんなもん」
「ひどぉい、ヤナギさんってば」
　理香が、わざとらしくそう言った。
「だから、第二ボタン、誰ももらいに来てくれないんですよ。ねぇ。アッチ」
「横田さんなんて、女の子たちにもみくちゃにされてたのにさ。なあ、理香」
　相変わらずのいい夫婦コンビだと思いつつ、小山はちらりと朔哉を見て言う。
「朔哉だって、さっきボタンねだられてたよな」
　萌子の笑顔が一瞬強張り、慌てたように朔哉が言う。
「断ったから」
　すると、突然柳田が大声を上げた。
「あーうるっさいっ！
　お前ら練習だろっ。特に一年っ、お前たちは先輩より早くグランドにでなきゃならないんだぞっ。
　さっさとグランドに行けっ、グランドにっ」
「ヤナギさん…」
　寂しそうな表情を見せる萌子の背中を、柳田は思い切り押す。
「ほらっ。行った行った」
　そうして、一年全員を追い返すと、ふうと腰に手をあて、ため息をつく。さっきまで騒がしかったというのに、気づけばそんな小さなため息も聞こえるほどに辺りには静まりかえっていた。柳田の背中にも、哀愁が漂っている。
「柳田」
「何だっ」
　勢い良く答えて振り返った柳田だが、出された手を見て、思わず息を詰まらせた。
「…小山」
「色々世話になったな。三年間、ありがとう。
　頼りないキャプテンの俺の代わりに、チームを引っ張ってくれて、ありがとう。
　感謝してる」
　だが柳田はその手を握り返す前に、再び腕で顔を覆う。
「…おい、柳田」
「何やってんだよ、小山」
　驚いた声をあげてやってきたのは、笠間だった。
　思わず小山は首を振る。
「俺は別に―」
　そこで涙声の柳田が、小山の言葉を遮って叫ぶ。
「俺だってなっ、小山。
　お前にすごく感謝してるぞっ。口下手な俺の代わりに、ちゃんとフォローしてくれて。全体の和を見てくれて、あいつらまとめあげた。お前、いいキャプテンだったぞっ」
　ありがとう、それだけなんとか言って、柳田は小山の手を握り締めた。そんな様子を見て、
「お前たち二人って、やっぱりいいコンビだな」
と笠間が呟く。が、突然柳田がくるりと振り返り、涙を流した顔そのままに、今度は笠間を怒鳴りつけた。
「馬鹿野郎っ、笠間っ。
　俺はお前にだって、すっごい感謝して…」
　だが、笠間が聞き取れたのはそこまでで、柳田はそういうと、肩を震わせて泣き始めてしまった。笠間は、小さなため息と共に、そんな柳田の肩に手を置く。
　その様子を見て、思わず小山も微笑むと、一人取り残されていた朔哉が言った。
「やっぱり、最高ですね。先輩たち」
　無言で笑った小山を見て、朔哉は空を仰ぐ。
「今年も、また新たなチームができると思います。
　コウさんとも、小山さんたちとも違うチームが。
　見ててください。
　来年の国立には、絶対に立ってみせますから」
　ニヤリと笑う朔哉に、小山も微笑んで答える。
「期待してるよ」