Maybe Blue 番外編
THE OTHER SIDE STORY
初めて見た姿は、真冬の海に向かって、何かを投げている姿だった。
ひどく思いつめた表情で、だけどその目には強い決意が漲っていて、一目で祥子は視線をそらすことができずにいた。
高校に入って、初めての冬休み初日。何となく誘われて入ったバスケ部を、怪我を理由に菅原祥子は一年経たずに退部することにした。退部届も出し、部室から荷物を引き上げたところで、ふと海が見たくなってやってきてみると、埠頭に人影が見えて、思わず祥子は足を止めた。
中学時代に体力作りだとかダイエットという理由で始めたバスケは、祥子にとってはただの遊びに近く、高校での厳しい練習は正直きつかったし、周囲との意 識の違いが、更にその溝を深めていた。実際に祥子が辞めると言っても、引き留めたのは同じ一年のクラスメート一人だけだったし、祥子を誘った友達は、とう に退部していた。
だがそれでも、三年間全うできなかったことに、消化不良に似た思いを祥子は抱えていたのだ。悩みながら、思い返しながら歩いたところに、彼がいた。
見せつけられた激しい感情に、菅原祥子は戸惑っていた。さらに、その相手が誰であるかを気づいたところで、祥子は更に驚いた。
福山、朔哉。
噂話に疎い祥子でも知っている彼は高校でアイドル並の人気を誇っていた。話したことはないが、学校ですれ違ったり見かけたことはあった。確かに皆が騒ぐ くらいに格好の良い人ではあったけれど、さわやかな笑顔はアイドルのように作られたものだったし、さし障りのない対応もその印象をさらに強めるだけで、そ れ以上の感情は起きず、自分とは関わりのない人だとだけ思っていた。
だから、目の前で、感情をむき出しにしているその人が、その福山朔哉だとは思えなかったのだ。
朔哉は祥子に気づくことなく、しばらく海を見ていたかと思うと、すっと消えて行った。
残されたのは、波の狭間に微かに聞こえてくるクリスマスソングと、高まった鼓動のままの祥子だった。
その日以来、祥子の中で、福山朔哉という存在が少し違ったものになった。
今まで見ていた福山朔哉という人と、本当の福山朔哉という人は、違うんじゃないだろうか。
けれどその好奇心に似た気持ちは、それ以上に膨らむことはなかった。
年が明けた冬の朝。
目を覚まし、鳴る気配のない時計を見たところで祥子はため息をついた。
必要ないのに早起きをしてしまうのは、この半年に身についた習慣のせいだ。バスケ部は毎朝朝練があるのだが、退部した今の祥子には関係がない。
二度寝しようとして、ふいに昨日の出来事を思い出す。それは、恋人からかかってきた電話だった。恋人の野田には、中学の卒業式の日に告白された。他の好 きな人がいなかったからという野田の言葉に乗って、祥子は軽い気持ちで彼と付き合い始めていた。学校が違うし、お互いに部活をしていたから、忙しくてデー トもたまにしかできなかったけれど、それでも仲良くやってきたと思っていた。
だが昨日、野田は突然に週末のデートの約束をキャンセルしてきたのだ。
いや、正確には祥子との約束を忘れていた。
「えっと、ごめん。別の約束、入っちゃってさ」
久しぶりのデートだからと、服も祥子は用意していた。今まで部活で忙しくて野田と一緒に居られなかった時間を、大事にしようと思っていた、そのきっかけの日だったはずなのに。
「この次、埋め合わせするから、ごめんっ」
それがいつになるのかは、聞いても意味がない気がして、祥子はわかったと電話を切ったのだ。
ため息をついてから、大きく伸びをして、祥子は起き上がった。気分を切り替えようと窓を開けようかとも思ったが、吐き出す息の白さに、手を引っ込めたところで、祥子は意外な人物を見つけた。
福山朔哉、先輩。
サッカー部の新キャプテンになった彼が、祥子の家の前をちょうどランニングしていたのだ。
たしかサッカー部も朝練があるはず。なのに、その前にトレーニングまでしてるんだ。
努力という言葉が似合わないはずのアイドルが、白い息を吐きながらまだ暗い朝の道をランニングしている。
本当は、地道に頑張っている人なのかもしれない。
祥子はそう思いながら、消えゆく背中にそっとエールを送った。
そして冬から春へと移り変わろうとしている季節。
祥子は教室で弁当を広げていた。
「ね、ホワイトデーの予定はどうなってる？祥子」
一緒に食べている友人が楽しそうに聞いてくる。彼女にはつい一か月ほど前のバレンタインで告白をして付き合い始めた彼がいた。
「どうって、どうもなってない」
「相変わらずクールだね、祥子。でもチョコあげたんでしょう？」
「うん。一応」
頑張って、バレンタインのチョコは手作りにしてみたけれど、野田の反応はあまり変わらなかった。いつものように、明るくありがとうと答えただけだ。
黙り込む祥子を見て、友人が訝しげに聞いてきた。
「つきあってるんだよね？」
「…たぶん」
「たぶんって、祥子―」
その時、教室が急に騒がしくなった。見ると、生徒の多くが窓側に集まっていて、下の様子をうかがっている。
「見てよ、福山先輩がいつもの取り巻きにひっぱたかれてる」
「嘘っ、許せないっ」
「っていうか、あの女誰？」
「あの子じゃないの？ほら、サッカー部のマネージャーの子」
「七組の沢木さんよ。彼女をかばって、福山先輩、叩かれたのよ」
「祥子も見に行こうよっ」
友人に引っ張られるようにして、祥子は窓から中庭をのぞく。ちょうど下では、朔哉が告白をしているところだった。
静まり返った中、校舎を客席に、まるで劇場のようになった中央舞台の中庭で朔哉の告白をする言葉が聞こえてくる。そして、その相手である萌子が頷いた。
「何？成功したの？」
誰かのささやきに答えるように、朔哉が萌子を抱き寄せている。途端に、祥子の周囲が沸き立った。
「おめでとう、朔哉先輩っ」
その声は祥子のクラスからだけではなく、他のクラスからも聞こえてくる。
「よっ、この色男っ」
「よくやったぞっ、朔哉」
「お幸せにっっ」
気を使った誰かが、プリントを細かく千切って空に撒く。するとそれは結婚式のフラワーシャワーのように、新たにカップルとなった二人に降り注いだ。
その中で、幸せそうにほほ笑みあう二人を見て、祥子も幸せをお裾分けされた気持ちになって微笑んだ。
新しい学年になると、近くのクラスになったせいか、二人をよく校内で見かけるようになった。
どこに行っても目立つ朔哉は、校内でも人目を引いて、必然隣にいる萌子も同じような注目が寄せられた。二人は似合いのカップルとして何かにつけて噂に上がった。
秋に行われた文化祭では、ベストカップル賞にも選ばれて、一方でサッカー部はインターハイで全国優勝したり、ますます名を挙げていた。
一時は、身近に感じた朔哉の存在は、そうしてますます祥子から遠ざかって行った。けれど反面、祥子の中では気づかぬうちにどんどんその存在感は大きくなっていた。
その秋の放課後、職員室に呼ばれた祥子は、夕暮れの校舎内を歩いていた。
どこか歩くのが遅いのは、中学時代の友人から、野田の噂を聞いたからだ。
「祥子って野田君と別れたんだよね？」
断定的な言い方に、祥子はどうしてと聞き返した。野田との電話の回数やデートの頻度は、ますます減ってはいたけれど、それでも別れてはいないつもりだった。だからこそ、友人の話には驚いた。
「…この前、見たんだよね。野田君と知らない女の子が腕組んで歩いてるところ。制服からすると、野田君と同じ高校みたいだったけど」
だが野田の浮気を聞いても、祥子は思ったほど彼に怒りを覚えなかった。
自分の恋人が浮気をしているというのに、腹が立たないなんて。
私、野田君のこと…好きなのかなあ。
今更ながらの疑問は、本来なら最初に気づくべきだった。だが、「好きな人がいなかったら」という野田の言葉を、本当に好きな人がいなかった祥子は、その ままに受け止めてしまっていたのだ。一緒にいて、野田は楽しい人だった。手をつないだ時は、ドキドキもした。だが、祥子の方から積極的にデートに誘った り、電話をかけたりしたことはない。
好きだったら、好きだとしたら、浮気だって腹を立てるし、祥子からもっと一緒にいたいと言っていたのではないか。
改めてそう思い返していると、ふと通りかかった教室から、人の気配がした。歩く速度を緩めてそっと中を覗くと、机に伏して眠っている女子生徒と、その様子を見守っている男子生徒が見えた。
福山先輩…。
夕焼けの陽だまりに優しく照らされた朔哉は、優しく微笑むと、眠っている萌子の髪にそっと触れていた。
優しく、愛おしそうに。何度も、何度も。
ただ髪に触れているだけなのに、どうしてか祥子の鼓動は早くなった。胸が締め付けられたように苦しくなって、思わず持っていたノートを胸に抱えると、そ こから教科書がこぼれ落ちた。その物音に朔哉が振り返るのがわかり、祥子は慌てて教科書を拾い上げると、そのまま自分の教室へと駆け出して行った。
教室に入ると、誰が追ってくるわけでもないのに、ドアを閉め、そのまま背もたれにしてずるずると座り込んだ。
一瞬だけ目があった朔哉には、先ほどまで萌子に向けられていた優しさはどこにもなかった。
ああ、あれは、彼女にだけ向けられるものなのだ。
わかっていたけれど、改めてそれを実感すると、更に胸が痛んだ。
恋人の浮気には痛まなかった胸が、朔哉と目があっただけで痛む。
その意味に、だが祥子は気づかずにいた。
仮に好きではなかったにしても、付き合っていた恋人同士としての以心伝心なのだろうか。
珍しく野田と久しぶりにデートをした、その帰り道だった。
「祥子ちゃん…もしかしてさ、他に好きな人出来た？」
「え？」
突然言われたことに、祥子は戸惑った。そんなつもりは全くなかったのだ。
「何だか俺と一緒にいても上の空だし、歩いてても誰か他の人探してるみたいだし、そうなのかな、って」
「そんなこと―」
ない、と言いかけて朔哉のことが頭をよぎる。
どうして、福山先輩のことが。
確かに、格好いいし、ファンではあるけど、でも福山先輩には彼女がいるし、私のことなんか知るわけもないし…。
黙り込んだ祥子を、肯定と受け取った野田は、そうかと呟いてから言った。
「いや、いいんだよ。
気づいてたと思うけど俺も、そうだし。
それじゃ、お互いの為に、別れよう」
差し出された野田の手と握手しながら、祥子の胸はそれでも痛むことはなかった。
だが、朔哉のことを思うと、前のように胸がぎゅっと締め付けられたように痛む。
その気持ちの意味を、祥子は初めて理解した。
だが祥子が野田と別れても、祥子が朔哉への気持ちに気づいたとしても、朔哉との関係が変わることはなかった。
それは朔哉が怪我をして、選手権の県予選決勝で負けても、変わらなかった。せめてエールだけでもと祥子が声をかけようと思う時には、必ずと言っていいほど萌子が傍にいたし、朔哉はそんな萌子を大事そうに見つめていた。
それでいいんだと、祥子は思った。
福山先輩は、私にとってただの憧れの人。
それ以上でも、それ以下でもない。
いつか偶然、話せる機会があれば、それだけで幸せ。
何より私は、福山先輩が彼女に向けている視線が好きなのだ。
優しく包み込むようでいて、それでもしっかり周りから守ってくれているような、その視線が。
だから、このままでいい。
彼女の側で微笑む先輩が見れていれば、それだけで、いい。
それに、春になれば、福山先輩はこの凪浜を去るのだから。
だが、そんな穏やかだった祥子の気持ちを、ざわつかせることが起きた。
年が明けて、三年は自主登校に切り替わっていた。久しぶりにグラウンドで朔哉を見かけた祥子は、もう少し見ていたいという気持ちから、廊下の窓に寄りか かり、グラウンドを眺めていた。サッカー部は引退している朔哉だが、それでも時折練習に参加していることを、祥子は知っていた。だが、制服を着ていること から、今日はどうやら練習に参加するつもりではないらしい。
部員たちに声をかけながらグラウンドの端を歩いていた朔哉が笑顔になってふいにかるく手をあげた。自然と祥子がその視線の先を追いかけると、萌子が立っていた。
彼女に会いに来たのかな。
視線を朔哉に戻すと、上げていたはずの手を朔哉はすっと下ろしていた。表情も、どこか強張っている。
どうしたの？
朔哉の視線の先、つまり萌子の方を見ると、別の部員が萌子に話しかけている。日焼けした小麦色の肌に、笑うと白い歯が見える。少し下がり気味の笑顔が優しそうで、笑い合っている二人はとても楽しそうだった。
朔哉の応援に見に行った試合でも、出ていた選手だ。
確か、同じ二年の…早坂君…だっけ？
そう祥子が思い出していると、ふいに朔哉が萌子に背を向け、グラウンドの外に向かって歩き始めた。慌てて祥子も廊下を走りだす。おそらく朔哉は部室に戻 るつもりだと、階段を駆け降り、サッカー部の部室に向かっていると、激しくボールが壁にぶつかった音がして、コロコロとサッカーボールが祥子の前を過って 行った。祥子がこわごわ、ボールが転がってきた部室と部室の間を覗くと、そこには朔哉の背中があった。朔哉は壁に右手をぶつけながら、小さく「畜生」と呟 いている。祥子からその表情は見えないが、一瞬あの冬の海に向かっていた朔哉のことを思い出した。
アイドルと称される穏やかな朔哉からは想像もできないような、深い悲しみや憎しみや怒り、そう言った感情を露わにしている朔哉の姿。
…もっと知りたい。
この人のことを。
もっと、もっと。いいところも、悪いところもひっくるめて、全部。
だが、その前には、萌子という大きな存在がある。
祥子は朔哉に声をかけるのをあきらめ、静かに校舎へと戻った。
「嫉妬…なのかな。でも、それにしては、度が過ぎるっていうか」
それから少しした放課後、祥子は中学時代の友人と待ち合わせて、お茶をしていた。
話はあの時の朔哉のことである。
笑顔ではなく、悲しみに顔を歪めている朔哉のことを思い出すのは、普通のファンとは違うのかもしれないが、その朔哉の方が祥子は気になってならなかった。
他校でも朔哉のことは話題になっているらしく、名前を上げずに話をしていたというのに、その友人はすぐに朔哉を言い当てた。
「うまくいってないんじゃないの？あるいは彼女の浮気をもとから疑ってたとか」
「でも本当に仲がいいのよ。そんな、疑ったり、疑われたりするような、揺らいでる関係にも思えないし。
何て言うか…すごく雰囲気がいいの。理想の恋人同士って感じで」
友人はふーんと答えてから、身を乗り出して尋ねた。
「祥子は好きなの？福山朔哉さんのこと」
軽く頷き、祥子は答える。
「あ、でもね、ファンとして、よ。そもそも、彼女と別れてほしいとかは思ってないし」
「ほんと？自分のものにしたいって、そんな風に思わないわけ？」
「彼女と一緒にいる時の先輩が、一番幸せそうで、好きなんだもの。このまま、遠くからでも見ていられれば幸せ」
そう答えた祥子の心に、何かがひっかかった。
確かに朔哉は、萌子の側にいる時はとても幸せそうで、一番いい笑顔を見せている。だが、一歩離れれば、あの苦々しい表情も見せているのだ。
朔哉が凪浜からは遠い大学に通うことは、周知の事実であった。となれば、朔哉と萌子は遠距離恋愛することになる。お互いに部活が忙しいのに、今まで通りにやっていけるのだろうかと、他人ごとながら祥子が考えていると、友人がでもさ、と口を開いた。
「…でもさ、今のままだと、その先輩は祥子のこと知らないままで卒業しちゃうわけでしょう？自主登校になっちゃえば、このまま卒業式まで会えないかもしれないし、バレンタインデーのチョコだってあげられないまま。それでいいの？」
友人の言葉が胸を突き刺す。
朔哉は自分を見ている祥子がいることはおろか、祥子という存在も知らないに違いない。
街ですれ違っても、試合を見に行っても、祥子を見つけてくれることはないのだ。
「どうせ砕け散るんなら、自分の気持ちを伝えてみたらほうがよくない？」
「でも―」
「あっ、ちょっと祥子っ！」
友人は声を潜めて突然祥子の肩を叩くと、アレアレと後ろを指さした。そこには、一人でコーヒーを飲む朔哉がいる。
「チャンスじゃないの、ほら、行ってきなよ。どうせ卒業式なんてもみくちゃにされるんだから、ゆっくり話すなら今しかないって」
結局友人に押し出されるようにして、席を立ったのは、祥子の中でも朔哉と話してみたいと思っていたからだった。
そっと近づいて行くと、陽だまりの中、朔哉はテーブルに置いた指で、トントンとリズミカルに音を立てていた。
考え事、しているのだろうか。
出直した方がいいかな。
友人は用事があると先に出てしまっていたが、それでもまだ祥子たちの席は残っているはずだ。
その時動いていた手が、カップを掴んだ。そして、朔哉はふとテーブルの脇に立つ祥子に気づいて顔をあげた。
「あっ、あの。福山先輩、ですよね」
朔哉は祥子を見つめると、肯定するように笑顔を浮かべながらも、さらりと祥子を観察するように見つめた。制服から、凪高の生徒であることはわかるだろう。だが、知らない相手ということで、少し警戒しているのも、祥子にはわかる。
当然だ、何せ一学年十クラスある学校で、部活でも委員会でも、今まで何の関わりもなかったのだから。
だが、自分が一方的に朔哉を見ていて、知っている気持ちだったことを見せつけられた気がして、祥子は少し落ち込んだ。だが、その気持ちを振り払うようにして再び口を開く。
「ちょっと、お話いいですか？」
店の中だと恥ずかしく、朔哉もコーヒーをほとんど飲み終えていたことから、二人は店を出た。ちょうど店の隣が小さな公園になっていて、そこに入ったところで祥子は名前と凪高の二年であることを言ってから、小さな声で「ファンでした」と、言った。
相手からの返事はない。
それも当然だ。当然だけれど、何かを言われて相手には謝られたくなかった。だから、口早に話を進めた。
「ただ、伝えたかっただけなんです。
福山先輩のこと、好きな子が、いたってこと。
それに、福山先輩に彼女いることわかってますから」
「萌子と知り合い？」
声が和らいだことに気づき、祥子は顔を上げる。よく見る朔哉の笑顔だった。魅力的なんだけれども、まるで作られたような、笑顔。
「いえ、同じクラスにはなったことないけど。知ってます。それに、きっといい子なんだって」
だから、彼女にはあの特上の笑顔を見せるのだ。
私にも、他の誰にも見せないあの笑顔を。
目がしらが熱くなって、思わず祥子は頭を下げることで誤魔化した。
「貴重な時間ありがとうございました。大学行っても、サッカー頑張ってください」
「ああ。ありがとう」
朔哉の声が、優しく聞こえる。
祥子はもう一度礼をしてから、くるりと踵を返し、そのまま歩きだそうとした。
だが、次の瞬間、あの時海に向けていた朔哉の表情が頭を過った。
そう思ったら、思わず口を開いていた。
「…彼女には、見せてるんですよね」
「え」
聞き返す朔哉の声を聞きながら、祥子ははっきりと聞こえるように繰り返した。
「彼女には、どんなつらい姿でも、どんなに格好悪い姿でも、見せてるんですよね」
最高の笑顔を見せているように、最低の姿も。
私には、見せなくても、彼女になら。
朔哉が何も言わずにいるのに気づいて、祥子はわざと明るく言った。
「ごめんなさい。余計な事でした。
それじゃ」
駆け出してしまいたかったが、そうすると言い逃げるようでみっともないと、祥子はゆっくりと歩き出した。そっと頬に触れると、一筋の涙が指に絡みついてきた。本当は声をあげて泣き出したかったが、それは朔哉から見えなくなってからにしようと心に決めた。
本当は嘘だったのだ。
ただのファンなんて嘘。
遠くから見られれば幸せなんて嘘。
私のこと、見てほしかったんだ。
彼女のことを見ているような目で。
あの優しい瞳で。
「ちょっと待って」
ふいに朔哉の声がして、祥子は足を止める。足音がして、自分のすぐ後ろまで朔哉が駆け寄ってきたのがわかる。
「菅原さん、だったよね？」
「…はい」
答えながら涙を拭い、振り返ると、朔哉はさっきと同じ笑顔を浮かべていた。
「君にのってもらいたい相談事があるんだけど。
時間あるかな、祥子ちゃん」
驚いて答えられない祥子を見て、朔哉は安心させるようにほほ笑んだ。だが、その笑顔は萌子に向けられていた笑顔とは違う笑顔だった。何より目が、笑っていない。
胸がざわついた。きっと、自分にとってはよくない相談事なのだろうとも感じた。
だが、今の祥子に断る勇気はなかった。
それに何より、朔哉と話ができることが、祥子の頭を縦に振らせる。
そんな祥子を見て、朔哉はよかったと安心したように笑顔を見せ、それじゃあ店に戻ろうとさっきの喫茶店の方へと歩き出した。
少しの間祥子はそんな朔哉の背中を見ながら、ざわついた自分の気持ちを落ち着かせようと思い返していた。
仮によくない相談事だとしても、
福山先輩の為になるのであれば、構わない。
私は、構わない。
ついてこない祥子に気づき、朔哉が振り返る。
慌てて祥子は、駆け出して行った。
ひどく思いつめた表情で、だけどその目には強い決意が漲っていて、一目で祥子は視線をそらすことができずにいた。
高校に入って、初めての冬休み初日。何となく誘われて入ったバスケ部を、怪我を理由に菅原祥子は一年経たずに退部することにした。退部届も出し、部室から荷物を引き上げたところで、ふと海が見たくなってやってきてみると、埠頭に人影が見えて、思わず祥子は足を止めた。
中学時代に体力作りだとかダイエットという理由で始めたバスケは、祥子にとってはただの遊びに近く、高校での厳しい練習は正直きつかったし、周囲との意 識の違いが、更にその溝を深めていた。実際に祥子が辞めると言っても、引き留めたのは同じ一年のクラスメート一人だけだったし、祥子を誘った友達は、とう に退部していた。
だがそれでも、三年間全うできなかったことに、消化不良に似た思いを祥子は抱えていたのだ。悩みながら、思い返しながら歩いたところに、彼がいた。
見せつけられた激しい感情に、菅原祥子は戸惑っていた。さらに、その相手が誰であるかを気づいたところで、祥子は更に驚いた。
福山、朔哉。
噂話に疎い祥子でも知っている彼は高校でアイドル並の人気を誇っていた。話したことはないが、学校ですれ違ったり見かけたことはあった。確かに皆が騒ぐ くらいに格好の良い人ではあったけれど、さわやかな笑顔はアイドルのように作られたものだったし、さし障りのない対応もその印象をさらに強めるだけで、そ れ以上の感情は起きず、自分とは関わりのない人だとだけ思っていた。
だから、目の前で、感情をむき出しにしているその人が、その福山朔哉だとは思えなかったのだ。
朔哉は祥子に気づくことなく、しばらく海を見ていたかと思うと、すっと消えて行った。
残されたのは、波の狭間に微かに聞こえてくるクリスマスソングと、高まった鼓動のままの祥子だった。
その日以来、祥子の中で、福山朔哉という存在が少し違ったものになった。
今まで見ていた福山朔哉という人と、本当の福山朔哉という人は、違うんじゃないだろうか。
けれどその好奇心に似た気持ちは、それ以上に膨らむことはなかった。
年が明けた冬の朝。
目を覚まし、鳴る気配のない時計を見たところで祥子はため息をついた。
必要ないのに早起きをしてしまうのは、この半年に身についた習慣のせいだ。バスケ部は毎朝朝練があるのだが、退部した今の祥子には関係がない。
二度寝しようとして、ふいに昨日の出来事を思い出す。それは、恋人からかかってきた電話だった。恋人の野田には、中学の卒業式の日に告白された。他の好 きな人がいなかったからという野田の言葉に乗って、祥子は軽い気持ちで彼と付き合い始めていた。学校が違うし、お互いに部活をしていたから、忙しくてデー トもたまにしかできなかったけれど、それでも仲良くやってきたと思っていた。
だが昨日、野田は突然に週末のデートの約束をキャンセルしてきたのだ。
いや、正確には祥子との約束を忘れていた。
「えっと、ごめん。別の約束、入っちゃってさ」
久しぶりのデートだからと、服も祥子は用意していた。今まで部活で忙しくて野田と一緒に居られなかった時間を、大事にしようと思っていた、そのきっかけの日だったはずなのに。
「この次、埋め合わせするから、ごめんっ」
それがいつになるのかは、聞いても意味がない気がして、祥子はわかったと電話を切ったのだ。
ため息をついてから、大きく伸びをして、祥子は起き上がった。気分を切り替えようと窓を開けようかとも思ったが、吐き出す息の白さに、手を引っ込めたところで、祥子は意外な人物を見つけた。
福山朔哉、先輩。
サッカー部の新キャプテンになった彼が、祥子の家の前をちょうどランニングしていたのだ。
たしかサッカー部も朝練があるはず。なのに、その前にトレーニングまでしてるんだ。
努力という言葉が似合わないはずのアイドルが、白い息を吐きながらまだ暗い朝の道をランニングしている。
本当は、地道に頑張っている人なのかもしれない。
祥子はそう思いながら、消えゆく背中にそっとエールを送った。
そして冬から春へと移り変わろうとしている季節。
祥子は教室で弁当を広げていた。
「ね、ホワイトデーの予定はどうなってる？祥子」
一緒に食べている友人が楽しそうに聞いてくる。彼女にはつい一か月ほど前のバレンタインで告白をして付き合い始めた彼がいた。
「どうって、どうもなってない」
「相変わらずクールだね、祥子。でもチョコあげたんでしょう？」
「うん。一応」
頑張って、バレンタインのチョコは手作りにしてみたけれど、野田の反応はあまり変わらなかった。いつものように、明るくありがとうと答えただけだ。
黙り込む祥子を見て、友人が訝しげに聞いてきた。
「つきあってるんだよね？」
「…たぶん」
「たぶんって、祥子―」
その時、教室が急に騒がしくなった。見ると、生徒の多くが窓側に集まっていて、下の様子をうかがっている。
「見てよ、福山先輩がいつもの取り巻きにひっぱたかれてる」
「嘘っ、許せないっ」
「っていうか、あの女誰？」
「あの子じゃないの？ほら、サッカー部のマネージャーの子」
「七組の沢木さんよ。彼女をかばって、福山先輩、叩かれたのよ」
「祥子も見に行こうよっ」
友人に引っ張られるようにして、祥子は窓から中庭をのぞく。ちょうど下では、朔哉が告白をしているところだった。
静まり返った中、校舎を客席に、まるで劇場のようになった中央舞台の中庭で朔哉の告白をする言葉が聞こえてくる。そして、その相手である萌子が頷いた。
「何？成功したの？」
誰かのささやきに答えるように、朔哉が萌子を抱き寄せている。途端に、祥子の周囲が沸き立った。
「おめでとう、朔哉先輩っ」
その声は祥子のクラスからだけではなく、他のクラスからも聞こえてくる。
「よっ、この色男っ」
「よくやったぞっ、朔哉」
「お幸せにっっ」
気を使った誰かが、プリントを細かく千切って空に撒く。するとそれは結婚式のフラワーシャワーのように、新たにカップルとなった二人に降り注いだ。
その中で、幸せそうにほほ笑みあう二人を見て、祥子も幸せをお裾分けされた気持ちになって微笑んだ。
新しい学年になると、近くのクラスになったせいか、二人をよく校内で見かけるようになった。
どこに行っても目立つ朔哉は、校内でも人目を引いて、必然隣にいる萌子も同じような注目が寄せられた。二人は似合いのカップルとして何かにつけて噂に上がった。
秋に行われた文化祭では、ベストカップル賞にも選ばれて、一方でサッカー部はインターハイで全国優勝したり、ますます名を挙げていた。
一時は、身近に感じた朔哉の存在は、そうしてますます祥子から遠ざかって行った。けれど反面、祥子の中では気づかぬうちにどんどんその存在感は大きくなっていた。
その秋の放課後、職員室に呼ばれた祥子は、夕暮れの校舎内を歩いていた。
どこか歩くのが遅いのは、中学時代の友人から、野田の噂を聞いたからだ。
「祥子って野田君と別れたんだよね？」
断定的な言い方に、祥子はどうしてと聞き返した。野田との電話の回数やデートの頻度は、ますます減ってはいたけれど、それでも別れてはいないつもりだった。だからこそ、友人の話には驚いた。
「…この前、見たんだよね。野田君と知らない女の子が腕組んで歩いてるところ。制服からすると、野田君と同じ高校みたいだったけど」
だが野田の浮気を聞いても、祥子は思ったほど彼に怒りを覚えなかった。
自分の恋人が浮気をしているというのに、腹が立たないなんて。
私、野田君のこと…好きなのかなあ。
今更ながらの疑問は、本来なら最初に気づくべきだった。だが、「好きな人がいなかったら」という野田の言葉を、本当に好きな人がいなかった祥子は、その ままに受け止めてしまっていたのだ。一緒にいて、野田は楽しい人だった。手をつないだ時は、ドキドキもした。だが、祥子の方から積極的にデートに誘った り、電話をかけたりしたことはない。
好きだったら、好きだとしたら、浮気だって腹を立てるし、祥子からもっと一緒にいたいと言っていたのではないか。
改めてそう思い返していると、ふと通りかかった教室から、人の気配がした。歩く速度を緩めてそっと中を覗くと、机に伏して眠っている女子生徒と、その様子を見守っている男子生徒が見えた。
福山先輩…。
夕焼けの陽だまりに優しく照らされた朔哉は、優しく微笑むと、眠っている萌子の髪にそっと触れていた。
優しく、愛おしそうに。何度も、何度も。
ただ髪に触れているだけなのに、どうしてか祥子の鼓動は早くなった。胸が締め付けられたように苦しくなって、思わず持っていたノートを胸に抱えると、そ こから教科書がこぼれ落ちた。その物音に朔哉が振り返るのがわかり、祥子は慌てて教科書を拾い上げると、そのまま自分の教室へと駆け出して行った。
教室に入ると、誰が追ってくるわけでもないのに、ドアを閉め、そのまま背もたれにしてずるずると座り込んだ。
一瞬だけ目があった朔哉には、先ほどまで萌子に向けられていた優しさはどこにもなかった。
ああ、あれは、彼女にだけ向けられるものなのだ。
わかっていたけれど、改めてそれを実感すると、更に胸が痛んだ。
恋人の浮気には痛まなかった胸が、朔哉と目があっただけで痛む。
その意味に、だが祥子は気づかずにいた。
仮に好きではなかったにしても、付き合っていた恋人同士としての以心伝心なのだろうか。
珍しく野田と久しぶりにデートをした、その帰り道だった。
「祥子ちゃん…もしかしてさ、他に好きな人出来た？」
「え？」
突然言われたことに、祥子は戸惑った。そんなつもりは全くなかったのだ。
「何だか俺と一緒にいても上の空だし、歩いてても誰か他の人探してるみたいだし、そうなのかな、って」
「そんなこと―」
ない、と言いかけて朔哉のことが頭をよぎる。
どうして、福山先輩のことが。
確かに、格好いいし、ファンではあるけど、でも福山先輩には彼女がいるし、私のことなんか知るわけもないし…。
黙り込んだ祥子を、肯定と受け取った野田は、そうかと呟いてから言った。
「いや、いいんだよ。
気づいてたと思うけど俺も、そうだし。
それじゃ、お互いの為に、別れよう」
差し出された野田の手と握手しながら、祥子の胸はそれでも痛むことはなかった。
だが、朔哉のことを思うと、前のように胸がぎゅっと締め付けられたように痛む。
その気持ちの意味を、祥子は初めて理解した。
だが祥子が野田と別れても、祥子が朔哉への気持ちに気づいたとしても、朔哉との関係が変わることはなかった。
それは朔哉が怪我をして、選手権の県予選決勝で負けても、変わらなかった。せめてエールだけでもと祥子が声をかけようと思う時には、必ずと言っていいほど萌子が傍にいたし、朔哉はそんな萌子を大事そうに見つめていた。
それでいいんだと、祥子は思った。
福山先輩は、私にとってただの憧れの人。
それ以上でも、それ以下でもない。
いつか偶然、話せる機会があれば、それだけで幸せ。
何より私は、福山先輩が彼女に向けている視線が好きなのだ。
優しく包み込むようでいて、それでもしっかり周りから守ってくれているような、その視線が。
だから、このままでいい。
彼女の側で微笑む先輩が見れていれば、それだけで、いい。
それに、春になれば、福山先輩はこの凪浜を去るのだから。
だが、そんな穏やかだった祥子の気持ちを、ざわつかせることが起きた。
年が明けて、三年は自主登校に切り替わっていた。久しぶりにグラウンドで朔哉を見かけた祥子は、もう少し見ていたいという気持ちから、廊下の窓に寄りか かり、グラウンドを眺めていた。サッカー部は引退している朔哉だが、それでも時折練習に参加していることを、祥子は知っていた。だが、制服を着ていること から、今日はどうやら練習に参加するつもりではないらしい。
部員たちに声をかけながらグラウンドの端を歩いていた朔哉が笑顔になってふいにかるく手をあげた。自然と祥子がその視線の先を追いかけると、萌子が立っていた。
彼女に会いに来たのかな。
視線を朔哉に戻すと、上げていたはずの手を朔哉はすっと下ろしていた。表情も、どこか強張っている。
どうしたの？
朔哉の視線の先、つまり萌子の方を見ると、別の部員が萌子に話しかけている。日焼けした小麦色の肌に、笑うと白い歯が見える。少し下がり気味の笑顔が優しそうで、笑い合っている二人はとても楽しそうだった。
朔哉の応援に見に行った試合でも、出ていた選手だ。
確か、同じ二年の…早坂君…だっけ？
そう祥子が思い出していると、ふいに朔哉が萌子に背を向け、グラウンドの外に向かって歩き始めた。慌てて祥子も廊下を走りだす。おそらく朔哉は部室に戻 るつもりだと、階段を駆け降り、サッカー部の部室に向かっていると、激しくボールが壁にぶつかった音がして、コロコロとサッカーボールが祥子の前を過って 行った。祥子がこわごわ、ボールが転がってきた部室と部室の間を覗くと、そこには朔哉の背中があった。朔哉は壁に右手をぶつけながら、小さく「畜生」と呟 いている。祥子からその表情は見えないが、一瞬あの冬の海に向かっていた朔哉のことを思い出した。
アイドルと称される穏やかな朔哉からは想像もできないような、深い悲しみや憎しみや怒り、そう言った感情を露わにしている朔哉の姿。
…もっと知りたい。
この人のことを。
もっと、もっと。いいところも、悪いところもひっくるめて、全部。
だが、その前には、萌子という大きな存在がある。
祥子は朔哉に声をかけるのをあきらめ、静かに校舎へと戻った。
「嫉妬…なのかな。でも、それにしては、度が過ぎるっていうか」
それから少しした放課後、祥子は中学時代の友人と待ち合わせて、お茶をしていた。
話はあの時の朔哉のことである。
笑顔ではなく、悲しみに顔を歪めている朔哉のことを思い出すのは、普通のファンとは違うのかもしれないが、その朔哉の方が祥子は気になってならなかった。
他校でも朔哉のことは話題になっているらしく、名前を上げずに話をしていたというのに、その友人はすぐに朔哉を言い当てた。
「うまくいってないんじゃないの？あるいは彼女の浮気をもとから疑ってたとか」
「でも本当に仲がいいのよ。そんな、疑ったり、疑われたりするような、揺らいでる関係にも思えないし。
何て言うか…すごく雰囲気がいいの。理想の恋人同士って感じで」
友人はふーんと答えてから、身を乗り出して尋ねた。
「祥子は好きなの？福山朔哉さんのこと」
軽く頷き、祥子は答える。
「あ、でもね、ファンとして、よ。そもそも、彼女と別れてほしいとかは思ってないし」
「ほんと？自分のものにしたいって、そんな風に思わないわけ？」
「彼女と一緒にいる時の先輩が、一番幸せそうで、好きなんだもの。このまま、遠くからでも見ていられれば幸せ」
そう答えた祥子の心に、何かがひっかかった。
確かに朔哉は、萌子の側にいる時はとても幸せそうで、一番いい笑顔を見せている。だが、一歩離れれば、あの苦々しい表情も見せているのだ。
朔哉が凪浜からは遠い大学に通うことは、周知の事実であった。となれば、朔哉と萌子は遠距離恋愛することになる。お互いに部活が忙しいのに、今まで通りにやっていけるのだろうかと、他人ごとながら祥子が考えていると、友人がでもさ、と口を開いた。
「…でもさ、今のままだと、その先輩は祥子のこと知らないままで卒業しちゃうわけでしょう？自主登校になっちゃえば、このまま卒業式まで会えないかもしれないし、バレンタインデーのチョコだってあげられないまま。それでいいの？」
友人の言葉が胸を突き刺す。
朔哉は自分を見ている祥子がいることはおろか、祥子という存在も知らないに違いない。
街ですれ違っても、試合を見に行っても、祥子を見つけてくれることはないのだ。
「どうせ砕け散るんなら、自分の気持ちを伝えてみたらほうがよくない？」
「でも―」
「あっ、ちょっと祥子っ！」
友人は声を潜めて突然祥子の肩を叩くと、アレアレと後ろを指さした。そこには、一人でコーヒーを飲む朔哉がいる。
「チャンスじゃないの、ほら、行ってきなよ。どうせ卒業式なんてもみくちゃにされるんだから、ゆっくり話すなら今しかないって」
結局友人に押し出されるようにして、席を立ったのは、祥子の中でも朔哉と話してみたいと思っていたからだった。
そっと近づいて行くと、陽だまりの中、朔哉はテーブルに置いた指で、トントンとリズミカルに音を立てていた。
考え事、しているのだろうか。
出直した方がいいかな。
友人は用事があると先に出てしまっていたが、それでもまだ祥子たちの席は残っているはずだ。
その時動いていた手が、カップを掴んだ。そして、朔哉はふとテーブルの脇に立つ祥子に気づいて顔をあげた。
「あっ、あの。福山先輩、ですよね」
朔哉は祥子を見つめると、肯定するように笑顔を浮かべながらも、さらりと祥子を観察するように見つめた。制服から、凪高の生徒であることはわかるだろう。だが、知らない相手ということで、少し警戒しているのも、祥子にはわかる。
当然だ、何せ一学年十クラスある学校で、部活でも委員会でも、今まで何の関わりもなかったのだから。
だが、自分が一方的に朔哉を見ていて、知っている気持ちだったことを見せつけられた気がして、祥子は少し落ち込んだ。だが、その気持ちを振り払うようにして再び口を開く。
「ちょっと、お話いいですか？」
店の中だと恥ずかしく、朔哉もコーヒーをほとんど飲み終えていたことから、二人は店を出た。ちょうど店の隣が小さな公園になっていて、そこに入ったところで祥子は名前と凪高の二年であることを言ってから、小さな声で「ファンでした」と、言った。
相手からの返事はない。
それも当然だ。当然だけれど、何かを言われて相手には謝られたくなかった。だから、口早に話を進めた。
「ただ、伝えたかっただけなんです。
福山先輩のこと、好きな子が、いたってこと。
それに、福山先輩に彼女いることわかってますから」
「萌子と知り合い？」
声が和らいだことに気づき、祥子は顔を上げる。よく見る朔哉の笑顔だった。魅力的なんだけれども、まるで作られたような、笑顔。
「いえ、同じクラスにはなったことないけど。知ってます。それに、きっといい子なんだって」
だから、彼女にはあの特上の笑顔を見せるのだ。
私にも、他の誰にも見せないあの笑顔を。
目がしらが熱くなって、思わず祥子は頭を下げることで誤魔化した。
「貴重な時間ありがとうございました。大学行っても、サッカー頑張ってください」
「ああ。ありがとう」
朔哉の声が、優しく聞こえる。
祥子はもう一度礼をしてから、くるりと踵を返し、そのまま歩きだそうとした。
だが、次の瞬間、あの時海に向けていた朔哉の表情が頭を過った。
そう思ったら、思わず口を開いていた。
「…彼女には、見せてるんですよね」
「え」
聞き返す朔哉の声を聞きながら、祥子ははっきりと聞こえるように繰り返した。
「彼女には、どんなつらい姿でも、どんなに格好悪い姿でも、見せてるんですよね」
最高の笑顔を見せているように、最低の姿も。
私には、見せなくても、彼女になら。
朔哉が何も言わずにいるのに気づいて、祥子はわざと明るく言った。
「ごめんなさい。余計な事でした。
それじゃ」
駆け出してしまいたかったが、そうすると言い逃げるようでみっともないと、祥子はゆっくりと歩き出した。そっと頬に触れると、一筋の涙が指に絡みついてきた。本当は声をあげて泣き出したかったが、それは朔哉から見えなくなってからにしようと心に決めた。
本当は嘘だったのだ。
ただのファンなんて嘘。
遠くから見られれば幸せなんて嘘。
私のこと、見てほしかったんだ。
彼女のことを見ているような目で。
あの優しい瞳で。
「ちょっと待って」
ふいに朔哉の声がして、祥子は足を止める。足音がして、自分のすぐ後ろまで朔哉が駆け寄ってきたのがわかる。
「菅原さん、だったよね？」
「…はい」
答えながら涙を拭い、振り返ると、朔哉はさっきと同じ笑顔を浮かべていた。
「君にのってもらいたい相談事があるんだけど。
時間あるかな、祥子ちゃん」
驚いて答えられない祥子を見て、朔哉は安心させるようにほほ笑んだ。だが、その笑顔は萌子に向けられていた笑顔とは違う笑顔だった。何より目が、笑っていない。
胸がざわついた。きっと、自分にとってはよくない相談事なのだろうとも感じた。
だが、今の祥子に断る勇気はなかった。
それに何より、朔哉と話ができることが、祥子の頭を縦に振らせる。
そんな祥子を見て、朔哉はよかったと安心したように笑顔を見せ、それじゃあ店に戻ろうとさっきの喫茶店の方へと歩き出した。
少しの間祥子はそんな朔哉の背中を見ながら、ざわついた自分の気持ちを落ち着かせようと思い返していた。
仮によくない相談事だとしても、
福山先輩の為になるのであれば、構わない。
私は、構わない。
ついてこない祥子に気づき、朔哉が振り返る。
慌てて祥子は、駆け出して行った。