ふいに顔に冷たい感覚を覚え、ゆっくりと成が目を覚ますと、自分の顔のすぐ横にはポカリ青いの缶と、その向こうにぼんやりとだが、夢で見ていた顔があった。
　萌子…？
その呟きが聞こえたのか、萌子は先ほどの夢と同じ笑顔で、成に微笑みかけた。
「目、覚めた？」
　一瞬の間があって、慌てて成は起きあがる。
「…うわっ」
　ガタンと大きな音があって、椅子が倒れそうになった。それでも、成は慌てて口許を拭う。
　やばい、よだれたれてないよな。
　ってか、寝言。言ってなかったよな。
　先ほどまで見ていた夢を思い出し、成は俯いた。萌子は慌てる成を見つめて、また笑いかけると、ポカリを成に渡す。
「すごくすやすや寝てるから、みんな起こせなかったんだって」
　午後の練習がきつかったのと、昨日寝不足だったのとで、湊たちが着替えるのを待っている間に、どうやら成は机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。
　はっと気づいて部室を見まわすと、萌子以外誰もいなかった。
「…どうして？萌子は−」
　萌子は、俺のこと待ってくれてたのか？
　その問いかけに答えるように、萌子は笑顔で答える。
「顔洗ったら、帰ろう」
「え？」
「鏡、見るといいよ」



　あいつら。
　成は小さくうなった。頬には赤い渦巻きが、額には無数の皺が、そして口元には泥棒のようにぐるりと黒いラインで囲まれてる。
　成は水でバサバサと顔を洗う。どうやら、水性の顔料だったらしく、すぐに洗い落とせたものの、成は怒りと恥ずかしさで、赤くなった自分の顔を、鏡越しに見つめた。
　こんな顔、萌子に見られてたなんて。
　成は、くすりと微笑んでいた萌子の笑顔を思い出す。
　どうして俺ってば、こう情けないんだろう。
　さっきまでは、かっこいいヤツだったのに。
　そう、さっきまでの、夢の中、成はかっこいいヒーローだったのだ。
　それはまるで仮面ライダーさながらの活躍ようで、そして相手役のヒロインは萌子だった。
　突然、ヤギの怪物に萌子がさらわれて、それを助けにいく成。
「成っ、助けてっ」
「萌子っ。待ってろ。俺が絶対助けるからっ」
　檻に閉じ込められた萌子を救うため、成は怪物と戦い、そして勝利する。
「萌子っ」
「成っ」
　檻から抜け出した萌子へと手を伸ばし、それに答えるように萌子が笑顔を浮かべて成へと手を伸ばす。
――そして、目が覚めた。
　あと、少し、もう少し、夢見ていられたらよかったのに。
　邪な成の気持ちを正すように、ノックがされて、無邪気な笑顔で萌子が顔を出す。
「準備できた？」
「あ？ああ、うん」
「それじゃ、帰ろ」




「なんかやな天気だね」
　外に出て校門を出た辺りで、萌子が言う。
　確かに空はどんよりと曇りはじめていた。
　今にも、雨が降りそうだ、と思った瞬間、成の頬にぽつんと冷たい水滴が落ちてきた。
　来た？
　空を見上げると、すぐに大粒の雨が成の額に、頬に、振り落ちてくる。
　隣で萌子が言った。
「とりあえず、あそこに避難しよう」
　萌子の指す先には、閉まっている商店の軒先があった。
　駆けこんだ軒先は、あまり幅もなく、二人は体を壁に押し付けるようにして溜息をついた。
　バケツをひっくりかえしたような雨、という表現が、ぴったりなほど、雨は土砂降りであった。ほんの一分走ったくらいなのに、成の髪の毛は濡れて、頬にはりついている。隣の萌子はというと、学ランを着ていた成と違って、白いシャツが濡れて、肌に張り付いてしまっていた。うっすらだが、下着の腺まで見えている。
　まいったな。
　どこみれば、いいんだよ。
　ふいに成は思い出したように、鞄からタオルを萌子に差し出す。
「汗臭いかもしれないけど」
「でも」
「いいから」
　そしてなかば、押しつけるように萌子の頭にそのタオルをかぶせる。そのタオルの奥から、萌子は瞳をのぞかせて言う。
「…ありがとう」
　成はひたすら雨の降り落ちてくる空を見上げていた。
「どうする？駅に引き返す？」
　どんどん強くなる雨を見て、萌子が言った。
「でも、遠回りだよな」
　成はそう答える。実際に、ここから寮までは、歩いて十五分。もし電車を使えば、寮につくのに三十分はかかる。バスはこの時間、大幅に遅れるのがいつもで、二人の頭にはなかった。
「多分、通り雨だから。すぐに止むよ」
　成はそう答えて、また空を見上げた。
　嘘つきだ。
　成はドキドキしながら、弾む胸を抑えて思う。
　本当は、もう少し、萌子と一緒にいたいから、なくせして。
　雨で気温が下がっているせいか、ほんの五センチも離れていないところにいる萌子を、そして萌子の体温を、成は感じることができた。
　もう少しだけ。
　せめて、夢を見ていた時間くらい。
　その時、大きなトラックが、二人の前を走りぬけてた。
「ひゃっ」
　大きな水溜りをタイヤが掠め、その水が大きく跳ね上がり、萌子が小さく悲鳴を上げた。慌てて成は、萌子を包むように、腕を大きく萌子に回した。
　ピシャッと水が頬にかかったが、そんなことは成にとってどうでもよかった。
「大丈夫？成」
「ああ」
「ごめんね。ありがと」
　萌子は、あ、と声を上げると、さっき成が渡したタオルで、成の頬を拭く。
「泥、ついちゃった」
「あ、うん」
　親切心からか、萌子は真剣な表情で成を見つめている。
　正義の味方とはいかなくても、こういうのも、いいかもしれない。
　そうこうしていると、またもトラックが駆けぬける。
「わっ」
　成はまた萌子をかばったが、こんどはその泥水が、自分の足の半分を濡らしたのがわかった。萌子が心配そうに大丈夫？とまた声をかけた。
　ここってば、トラックの通り道みたいだな。
　そして、軒先の前には、泥を含んで濁っている大きな水溜りがある。
　寮についたら即シャワーだな、これは。
　成がそう思った途端、目の前で心配そうに俯いていた萌子が、突然顔を上げた。
「行こう」
「え？」
　そして成の手を掴むと、軒先から出て言う。
「たまには雨に濡れるのも、悪くないんじゃない？」
　用意ドンというように、走り出そうとした萌子の腕を、成は強く引きとめた。
「あ、ちょっと待って、萌子」
「え？」
　そして学ランを脱ぐと、バサッと萌子にかぶせる。
「少しは、ましだから、さ」
　戸惑っている萌子に、成が笑顔を向けると、萌子も安心したように微笑んだ。
「ありがと」
　そして、今度は成から萌子の手を強く握って言う。
「行くぞっ」



「ただいまっ」
「お邪魔しますっ」
　息を切らせながらも、成と萌子が寮につくと、電話をかけていたケンが、受話器から顔を離して二人を見て、呆れて言った。
「お前ら、何してきたんだよ。ってか成、気づいちゃったわけ？」
「当たり前だ」
　成がケンを睨み返すと、ケンは慌てて電話口で話はじめた。
　やっぱりケンだったか。
　通りかかった厳己が言う。
「すごい恰好、二人して」
　成の顔は、少し泥がかかっているし、萌子は学ランを羽織っている。そして二人は、本当に水を滴らせていた。現に、二人が立っている玄関には、もううっすらと水溜りができ始めている。厳己の声が聞こえたのか、続いて湊が顔を出す。萌子が鞄を床に置いて湊に言う。
「雨が降ってきたから、走って帰ってきたの。家よりも寮のが近かったら、こっち来ちゃった。あ、湊。タオル貸してくれる？」
「持ってくるよ」
　湊はそう言うと、軽く成に微笑みかけた。まるで、よかったなとでも言うように。
　湊まで…。
　成が怒りと恥ずかしさで顔を赤らめていると、萌子が玄関のドアを開けて成を呼ぶ。
「成、見て」
　ああ、と答えて成がドアの外をのぞくと、さっきとは全く違う景色が広がっていた。
「…雨、止んでる」
　しかも、空には虹までがうっすらと見えていた。
　ほんと、通り雨だったんだ。
　でも、きっと、あのまま二人で雨宿りしていても、多分他愛もない話をしてるだけだった。
　成はそう思って、そっと自分の左手を見つめる。
　さきほどまで、萌子の熱を感じていた左手。
　意外と冷たくて、しっとりしてて、小さかった、萌子の手。
　夢の中では、掴めなかった手。
「でもさ。楽しかったね」
　萌子が振りかえって言う。
　その笑顔があまりに無邪気過ぎて、成は慌てて左手を握り締めて、必死に頷く。
　こんな特典があるんだったら、ケンの悪戯だって、いくらだって受ける…かもしれない。