練習後のアルジャーノンで、朔哉は目の前でテーブルに頭をつけるくらいの勢いで謝る三年の榎田を目の前にして、思わず口をつけようとしたカップを持つ手を止めた。
「すまん。朔哉」
「…何が、あったんですか？」
　その勢いでこぼれたコーヒーを、さりげなく拭きながら優しくそう声をかけると、榎田はゆっくりと顔を上げて説明した。
「実はな。俺の従妹がお前の大ファンなんだ」
　一瞬朔哉はぽかんとしてから、常套句を口にする。
「…ありがとう、ございます」
　実際、自分を応援してくれる人がいるというのはありがたいことで、朔哉もその期待に応えたいとは思うし、感謝をしている。だから、その人が、写真を撮りたいとか、握手したいとか、そういうことに応じるのも、当たり前のことだと思っていた。
　だが、そんな朔哉の様子をいつも目の当たりにしているはずの榎田の表情は、何故か晴れない。
「いやいや、それでな。紹介しろってうるさくてさ…その」
　すると再び榎田は頭を下げて叫んだ。
「すまん、沢木」
　今度驚いたのは、朔哉の隣に座らされていた萌子だった。
「…あの、どうしたんですか？」
　遠慮がちに萌子が聞くと、榎田は頭を上げることなく、一気にまくし立てるように言った。
「思わず言っちまったんだ。
　朔哉には、サッカー部のマネージャーしてる沢木って彼女がいるんだって」



　そもそも、朔哉は榎田に、練習後アルジャーノンに呼び出されていた。榎田はＣチームの三年生だ。練習で朔哉と絡むことなどほとんどない。その先輩からの呼び出しに、首を傾げてアルジャーノンのドアを開けたところ、同じように榎田に呼び出された萌子がいたのだった。


　簡単に言えば、榎田の、高校二年生の従妹が、朔哉の猛烈なファンだという。
　事ある毎に、朔哉についての質問を受けてうんざりしていた榎田は、ついに朔哉には彼女がいるんだと答えた。だが、それが、逆効果だったのだ。
「それがな、絶対に信じないっていうんだ、典子。あ、典子って言うんだ、従妹」
「それで？」
　朔哉は頭を抱えて聞き返す。
「明後日の土曜日にこっちにやってきて確かめるっていうんだよ」
　思わず萌子が口を出した。
「そんなの、誰かに聞いたらばれちゃいますよ」
「部内恋愛だから、内緒にしてるって言ってある」
　萌子の小さなため息が聞こえる前にと、朔哉はすぐさま言い返す。
「でも、ずっと恋人のふりなんてできませんよ」
「安心しろ。従妹は仙台市民だ」
　これ以上、朔哉も我慢できなかった。
　何より、怖かった。
「別に、嘘をつく必要、ないじゃないですか。いいですよ。俺から彼女に話しますから」
　決定的な言葉を、萌子の口から聞きたくなかった。
　そんな役、やりたくない、と。
　だが榎田は、顔の前で両手を突き合わせて言った。
「それがなあ、朔哉。本っ当にすまんっ」
「今度は何ですか」
「そもそも、典子には、ついお前とのデートをとりつけてやるって言っちゃってんだ。お前がフリーだとわかれば、お前は典子とデートしなきゃならん」
　朔哉は榎田が先輩でなかったら、殴っていたかもしれないと思いつつも、冷静に答えた。
「…いいですよ。デートくらい」
　ファンの子を大事にするのは、アイドル福山朔哉としての勤めでもあると、朔哉は思っている。
　一瞬、隣で萌子が軽蔑しているかもしれないと思ったが、それでも朔哉にとっては拒否されるよりはましだった。
「本当か？朔哉」
　ぱっと顔をあげ、まるで神様を見つけたように顔を輝かせて榎田が言う。
「別に。映画でも見て、お茶すれば、満足してくれるかな」
　そう答える朔哉に、抱きつかんばかりの勢いで、榎田は朔哉の両肩を掴む。
「ああ、ほんとお前、いい後輩だっ。そういうデートを、月に一度、してくれればいんだ」
「…なんて話したんですか。先輩」


　本当の事をいえば、榎田は、
「福山くらい、俺が頼めば何でも聞いてくれるんだぜ」
と『つい』その従妹に言ってしまったらしい。
　そして、その従妹の、
「だったら、和彦（榎田の名前）が頼んだら、あたしがこっちに遊びに来るたびにデートしてくれるわけ？」
という売り言葉に対して、
「そんなの朝飯前だ」
と、大見栄を張ってしまったそうだ。ちなみに彼女が上京するのが、だいたい月に一度くらいらしい。
　それを本気にしてか、事ある毎に従妹は状況のたびに榎田に朔哉とのデートの話を口にし、困った榎田がついてしまったのが、
「朔哉には、彼女がいて、一緒の部だから何でもお見通しで、だからお前とのデートはできないそうだ」
　という嘘だった。

「典子は半端ないお前のファンなんだ。だから、お前らがそれこそ手をつないで、俺たちつきあってますって言っても、それだけじゃ信じないような疑い深い女なんだ。
　ここは俺が持つ。だから、二人で思う存分、恋人になる為の打ち合わせしてくれ」
　そして榎田はそう言い残し、さっさとアルジャーノンを出て行ってしまった。

　ドアが閉まる音を聞いて、萌子が溜息混じりに言う。
「って言われても」
　そこに、榎田が気を使ってか頼んだケーキが運ばれてきた。黙り込んでいる二人を見て、話を聞いていたマスターが言う。
「ようするに、ひとつの作り話を演じられればいいんだよ。
　簡単、簡単」
「作り話って言っても…」
「例えば、つきあってどのくらいだとか」
　話をふられた萌子は、うーんと考え込んで答える。
「あまり昔でも、真実味ないだろうし…。一ヶ月？」
「いや、ニ週間あたりにしておこう。だったら少しぐらいぎこちなくてもばれないんじゃないかな」
　朔哉が答えると、うんうんとマスターが頷いた。
「告白は、萌子ちゃんから？それとも朔哉？」
「えっと…」
「俺からにする。そうだな。こうしよう。
　俺はマネージャーとして入ってきたモエちゃんに一目惚れした。だけど、マネージャーだし、振られるのが怖くて、なかなか言い出せなかった」
　すらすらと言葉が出てきたのは、それが作り話ではなく、本当のことだったのかもしれない。
　朔哉はそう思って今まで思ってもみなかったことに気づいた。
　そうか、俺。
　一目惚れ、してたのかもしれない。
　自分の気持ちを、監督に正直にぶつけているモエチャンを見て、あの時からもう惹かれてたんだ。
　そんなことに気づくなんて。
　だが朔哉はわかっていた。
　これは作り話。
　現実じゃない。
「でも、試合で負けたとき、慰められて、つい告白。それでＯＫをもらう」
　そこまで聞いて、マスターはにっこりと笑った。
「よし、朔哉はそれでいいとして、そんな朔哉を、萌子ちゃんはどう意識してたわけ？」
「多分、俺の方が惚れてるんだと彼女に思わせた方がいいんじゃないかな。だから、モエチャンにとって俺はあくまでもただの先輩だった」
　そう言って、朔哉は俯いた。
　それが、現実なのだから。
　だがそんな朔哉とは反対に、今度は萌子が話を進め出した。
「でも、それじゃ榎田さんの従妹が納得しないんじゃない？
　例えば…。そう、柳田さんに叱られたとき、かばってくれたのが福山先輩で、それでちょっと意識し始めて」
「それで告白されて、受けた」
　マスターがそうまとめると、萌子がくすくすと笑った。
「なんか、楽しいですね」
　それを受けて、マスターがくすりと微笑んで朔哉を見つめた。思わずにやけそうになっていた朔哉は顔を逸らす。マスターのその視線が何もかもばれている気がして、朔哉は思わず言い返す。
「モエチャンは楽しいかもしれないけど、俺も榎田さんも、未来がかかってるんだよね」
「あ、ごめんなさい」
　萌子はそう言ったものの、どこか楽しそうだった。
　朔哉も自然と綻ぶ口許を隠して、話を続ける。
「いいよ。迷惑かけるのはこっちなわけだし。
　それじゃ、次。初デートは？」
「遊園地。どうかな？」
「よし決定。先週の土曜日な」
「私、お弁当持っていったことにしようかな」
「それ賛成。それでおにぎりの中に俺の苦手な梅干が入ってたんだけど、俺は言えずにそのまま我慢して食べちゃって」
「慌てて飲みこんだんだけど、ご飯が喉をつまらせそうになって」
「慌ててジュースを飲んだ。それがコーラだったから、口の中に何とも言えない味が広がって…」
　朔哉がそう答えたところで、また萌子が笑った。
「ふふ」
「モエチャン」
「ごめんなさい。だって、本当にあったことみたいだから」
　本当にあったこと。
　デートも、
　出会いも、
　きっかけも、
　モエチャンの気持ちも。
「…だったらいいのに」
「え？」
　呟いた言葉は、どうやら萌子には届かなかったらしい。
　カウンターの中で、応援するように笑顔を向けるマスターと目が合い、慌てて顔をそらし、朔哉は言う。
「いや、何でもない」



　榎田典子は、とびきりのおしゃれをして、凪浜高校の校門をくぐった。
　我ながら、絶妙な作戦だったと思う。
　大風呂敷をよく広げる従兄弟の和彦をだますようにしてしまったのは、少し気が引けるけど、それで大好きな朔哉とのデートをこぎつけたのだから、結果オーライだ。
　この頃になって、突然朔哉に彼女ができたとかいう話だけど、それを典子は信じてないし、仮に贋物の彼女がやってきても、それを見ぬける自信があった。
　そのくらい、朔哉くんが好きなんだもん。
　待ち合わせたのはアルジャーノンと言う喫茶店だったが、典子はその前に練習風景を見ておきたかった。だから、凪浜高校のグランドに顔を出す事にした。
　それに、その贋物の彼女、見てみたいし。
　だが、学校のグランドで練習をしていたのは、野球部だった。
　練習後に会うって話だったのに、どうしたんだろう。
　今日は体育館で練習なのかしら。
　典子がグランドを出て、体育館らしきところへと向おうとしたところで、ふと目の前をサッカー部の名前の書かれたジャージが横切った。
「あの、すみません」
　声をかけると、そのジャージ姿の部員が振返った。
　あ、と声を上げそうになって典子はそのまま聞こうとしていたことを忘れて、彼の顔の見入ってしまった。
　切れ長の瞳に、サラサラの黒髪。
　綺麗、と典子が思った瞬間、カッと頬が熱くなるのがわかった。
　背の高い部員は、一瞬だけ眼を止めたが、何も言わない典子を見て、そのまま踵を返して校門を出て行ってしまった。
　典子はそのまま引き止めもせず、その後姿を見送った。
　その長い睫に縁取られた瞳を、風に靡いた黒髪を、
　そしてジャージにあった『ＦＵＪＩＷＡＲＡ』のイニシャルを、深くその胸に刻みながら。



「あれ？榎田先輩。従妹は？」
　萌子の隣に座り、榎田を待っていた朔哉は、現れたのが榎田一人だったことに戸惑いながら尋ねた。その隣で、萌子も同じような表情をして、朔哉と榎田を見つめていた。
　榎田は、頭をぽりぽりとかきながら二人の正面の席に座って、言い辛そうな表情のままに話した。
「それがなぁ…。お前のことはもういいそうだ」
「え？」
　思わず朔哉と萌子の声が重なる。
「もう眼中にないんだと」
　榎田がそう言って、朔哉は少しばかりショックを受けた。
「あ…。そ、ですか」
　言い寄られても困るけれども、かと言って去られるのも物悲しい。
　しかも、昨日の萌子との恋人同士の作り話が楽しかったから、余計にそれが実現できなかったことが朔哉にはすごく残念だった。
　そんな朔哉の心境に気づかない榎田は、浮かない表情で朔哉に問いかけた。
「ところでなぁ、朔哉。
　藤原って彼女いんのか？」
　藤原？と思いながらも朔哉は答える。
「さあ。モエチャン知ってる？」
「いいえ」
　そうか、わからないか、と榎田がぽつりと呟く。
　ピンと来た萌子が、慌ててはっきり答えた。
「いいえ、いないです。きっと。だから榎田先輩。典子さんにそう答えてあげてくださいね」