約束の場所に、少し遅れてやってきた見覚えのある服を見て、朔哉は手を上げた。
　久々の休みの日曜日。今日はこれから小雪と映画を見に行く予定だった。
　付き合い始めてまだ二ヶ月あまり。知れば知るほど、朔哉は小雪を好きになっていた。
　白い息を吐きながら、少女は朔哉の前にやってくる。
「ごめんなさい。遅れちゃ−」
　少女はそう言って頭を下げようとしたところで、ふいに自分の頬に朔哉の人差し指が触れていることに気づき、思わず飛び跳ねて叫んだ。
「なっ、なにすんっ」
「君が小巻ちゃんか。初めまして」
　朔哉はそう言って笑顔を向ける。驚いたのは小巻だった。
「なっ。なんでわかるのよ、あたしが小巻だって。
　服だって小雪のだし、髪型だって、真似したわ。声だって、小雪に合わせて−」
「確かに双子だから、背格好とか本当にそっくりだけど。わかるんだ」
朔哉はそう自信満々に言いきった。首を傾げた小巻は、唯一朔哉がさっき自分にした行為を思い出す。
「ほっぺた？」
　くすりと朔哉が笑い、小巻は自分の答えが正しいことを知った。



　朔哉と小雪が付き合い始めた頃、周りは大騒ぎだった。
　朔哉は関谷中でも名の知れた生徒で、成績も優秀、スポーツも万能、ルックスもよく、人当りもよい。いわゆる「アイドル」であった。実際、サッカーでは二年生ながら県選抜にも選ばれていて、その名前は県下でも知られていた。
　一方で、小雪といえば、関谷中の隣町にある上木中学の一年生。部活は園芸部。その名前が関谷中内を駆け巡ったとき、誰もが「それは誰？」と首を傾げるほどに、ごく普通の生徒だった。
　誰かが、月とすっぽんだと言っている声も朔哉は聞いた。
　だが、そんなこと関係ないくらい、朔哉は小雪が好きだった。
　そのやわらかな頬も。
　そのつぶらな瞳も。



「ところで、小雪ちゃんは？もしかして、風邪引いたとか？」
　心配そうな朔哉に向って、小巻は顔を真っ赤なままに叫ぶ。
「違うわよっ」
　性格はまるで正反対と聞いていたが、さすがにここまでとは朔哉も思っていなかった。
「それじゃ？急用？」
　顔を覗き込もうとすると、小巻はくるりと朔哉の背を向けて、一呼吸置いて言った。
「別れるって」
「え？」
「福山朔哉と別れるって、伝言預かってきたの」
「え…？」
　一瞬にして朔哉の頭は真っ白になる。
　そんな様子を見て、小巻はいそいそと去って行こうとした。
「そ、それじゃ、ね、たしかに伝えたから」
「ちょっと待ってくれよ。いきなりそんな風に言われても、納得できな−」
　駆けていこうとした小巻の肩を掴むと、小巻は振返りながら朔哉の腕を払い、そしてはっきりと言った。
「妹の立場からも言わせてもらうけど。
　金輪際、姉には近づかないで頂戴」



　気づいたら、先生も、クラスメートも、親でさえ、朔哉のことを特別視するようになっていた。その重圧に耐えられなくなっていた頃、朔哉は小雪と出会った。
　双子の妹、小巻も朔哉と同じく何でもできるタイプで、何かと小雪は比較されていた。だが、小雪は小巻の頑張る姿もきちんと見ていた。
　輝いている人は頑張っている証なのだという小雪を朔哉は好きになり、告白した。
　なのに、どうして？
　突然別れようってことになる？



　電話はかけても居留守を使われ、流石に家まで押しかけることもできず、翌日朔哉は昼休みの教室で悩んでいた。そうとは知らないクラスメートの男子が、朔哉に声をかける。
「朔哉。今度の日曜日、遊びに行こうぜ」
　そのクラスメートは何かあれば朔哉を呼び出した。そうやって朔哉の名前で女子を集めていることくらい、朔哉も知っていた。
「悪いけど、俺。彼女と遊ぶ約束してるから」
「え。でも、お前あのおたふくとはわかれたんだろ？」
　おたふく？
　思わず睨み、襟元を掴みそうになったところで、朔哉はふとその手を止めて聞き返した。
「おい…。別れたって？」
　昨日のことだが、誰にも言ってもない。
　そもそも、朔哉自身、別れたとは思っていない。
　朔哉の迫力に負けたクラスメートは、腰を引きながらこう言った。
「だって女子たちが言ってたぜ」



　とりあえず、休み時間に吹聴していた女子を捕まえて、朔哉は質問した。
「どういうことだよ。俺と彼女が別れたとか吹聴して回って」
　だが、女子三人は、朔哉の前で驚いたようにお互いの顔を見合わせた。そして、三人がそれぞれに口を開いた。
「先週中には別れたって聞いたんだけど」
「別れてないの？朔哉くん」
「でも、藤村さんとかがきちんと言ってくれてるって。…あ」
　藤村寛子は、朔哉の前の彼女である。
　可愛らしい顔立ちをしてるが、その言動は、そのルックスとかなりかけ離れている。
「説明、してくれるよな」



　上木中の校門に立っていると、自然にできた人垣から、小巻が現れた。
「ちょっとっ、何やってんのよ。福山朔哉」
「小雪ちゃんは？」
「帰ってよ。こんなとこにいられても迷惑なの、小雪は」
　小巻はそう言うと、さっさと朔哉を校門の外に連れ出す。とにかく一目を避けたかったようで、少し歩くと、小巻は朔哉を掴んでいた腕を離した。
「誤解だ。俺は別に寛子とつきあってるわけじゃない。前につきあってたけど別れたし、今はただの同級生だ」
「ただの同級生が、隣の中学まで乗りこんでくるわけ？」
「だから−」
　朔哉がそう言いかけたとき、久しぶりに見る小雪が、朔哉に気づいて足を止めたところだった。
「小雪ちゃん。…どうしたんだ？その頬」
　色白でふっくらとした頬が、左側だけ赤く腫れていた。慌てて小雪は手で隠したものの、明らかにそれが人工的な傷であることはわかる。
「こゆ−」
　小巻がそう話しかけたものの、そのまま小雪は二人の脇を駆けていってしまった。
　追いかけようとする朔哉の腕を、小巻ががっしりと掴む。離せと言おうとした朔哉を、小巻は一瞥すると顔を伏せて言った。
「ただの同級生が、小雪の事殴ったのよ。知らないの？
　泥棒猫ってなじって。
　もう小雪に関わらないで。これ以上、小雪を傷つけないで。わかった？」



「何？話って」
　鋭い声がして振り返ると、寛子が立っていた。小巻が言っていたことを確かめるために、放課後朔哉は中庭に寛子を呼び出した。
「…佐藤小雪のところに、何しに行ったんだよ」
　寛子は予想していたらしく、平然と言った。
「別に。不釣合いだから、別れてって言っただけよ」
「お前には関係ないだろ」
　その言い方に、寛子は腹を立てたのか、少しばかり声を荒げた。
「関係なくないわよ。
　どうして、私と別れて、あの子とつきあうのよ。
　どうして、私じゃなくてあの子を選ぶのよ。月とすっぽんじゃない。まるで」
　朔哉は小さな溜息をつく。
「いいだろ？だいたい、俺はそう思ってない−」
「ふざけないでっ」
　その声は、まるで朔哉を引っぱたかれた気持ちにさせた。
「福山朔哉とつきあうような子が、どうしてあんな平平凡凡な子なわけ？
　どうして関谷中のアイドルが、どうしてあんなおたふくみたいな子とつきあうわけよっ」
　流石の朔哉も頭に来て、言い返そうとしたところで、寛子は更に言った。
「言っておくけど、これは私の意見だけじゃないのよ。聞いたでしょ？他の女の子から。
　あんな陳腐な子が、福山朔哉の彼女だなんて、信じられないし、信じたくない。
　みんなが口を揃えて言ってたわ」
　別れたと吹聴していた三人の顔が浮かんだ。別れるのは当然だとでもいう顔をしていた彼女たち。
　どうして寛子と別れて、小雪とつきあうのか、全くわからないと陰口を叩いていたクラスメート。
　黙りこんだ朔哉に、寛子は最後に言い残す。
「許さないわよ。私だけじゃない。他のみんなもね」



「すっげーオンナ。こえー」
　静まり返った中庭で、ふいに聞き覚えのない声がして、朔哉は顔を上げる。
「よ」
　見知らぬ制服を着て、片手を上げて立つ男子を、朔哉は知らなかった。
「大変だな、お前も。妙なもん抱え込んでさ」
「妙なもん？」
　馴れ馴れしいが、ずうずうしくはない。
　思わず答えた朔哉に、その男子はニヒルな笑みを浮かべた。
「アイドルって称号」
　俯く朔哉に、その男子は続けて言う。
「しってっか？アイドルって和訳すると『偶像』なんだってさ。
　つまり、実体のないもの、人の理想を押しつけられた空想の人物。
　あのオンナにとっても、お前ってそうなんだろうな」
「俺は…」
　違う。
　そう言いたかった。
　自分は偶像なんかじゃない。
　だが、言えなかった。
　周りの期待する福山朔哉と、現実の自分とのギャップを、痛いほど感じていたから。
　落ち込んだ朔哉に、男子は明るく言う。
「俺だったら、知るかそんなもん、ってぶちきれるけど、お前真面目だから、そうはできねぇんだろ？」
　見抜かれているとハッと顔をあげたが、男子はそんな朔哉に厭味をいうわけでもなく、むしろあっけらかんとこう言った。
「ま、いんじゃないの。それはそれで」
　その意味がわからずに、ただじっと見つめていると、だからさ、と男子は続けた。
「結局今までやってこれたってことは、まんざら嘘でもないってことじゃん」
　小雪と同じことを言うこの男子に、朔哉は更に見入る。男子はそれと知ってか続けていった。
「ただひとつ言えるのは、お前の彼女には、その称号任せられないってこと。そこ、大事だからさ。わかってやんねぇといけねぇよな」
　男子がそう言ったところで、遠くからおーいという声が聞こえた。少しして中庭に顔を出したには、やはり知らない顔で、男子と同じ制服を着た生徒だった。
　じゃな、と去っていく男子を朔哉は呼びとめる。
「名前は？」
「え？」
「うちの中学じゃないんだろ？」
「ああ。細谷。細谷俊平」
「俺は−」
「知ってるよ。有名だから、関谷中の福山朔哉」



　公衆電話から自宅にかけると、運良く本人が出た。そのまま近くの公園にいるというと、小雪はわかったとだけ答えた。
「朔哉、くん」
　やってきた小雪の頬は、まだ赤い。
「色々迷惑かけてごめん。でも、きちんと小雪ちゃんと話したくて」
　そうして朔哉は深く頭を下げる。
「ごめん」
「謝らないで」
「でも、ごめん。痛かっただろ？」
　朔哉はそっと小雪の頬に手を伸ばした。だが、小雪はその手から逃れるように一歩下がる。
「あたしは、いいの。でも…小巻ちゃんが」
「小巻ちゃんが？」
　小雪は一瞬だけ、小巻の名前を出したことを後悔したようだったが、すぐに話すことは決めたようだった。
　
　話は、寛子が上木中に行ったときに遡る。
　授業が終わって、校舎から出てきた小雪を、待ち伏せしていた寛子が引きとめた。
　そして朔哉と別れるように言った。
　だが、小雪は断った。それは自分と朔哉の問題だからと。
　それで逆上した寛子が、小雪の頬を殴り、「この泥棒猫っ」と大声で叫んだ。慌ててやってきた小巻が寛子を突き飛ばしたのだ。
　別にそれだけだったらよかったのかもしれない。
　でも、その様子を、生活指導の教師が見ていて、小巻はそのまま部活動休止を言い渡された。次の大会が近づいていたのに、それすらふいになり、小巻はスポーツ推薦も受けられなくなったのだ。
　しんしんと、雪が今にも降り出しそうな夜だった。
　黙りこんでいた小雪が、ぽつりという。
「はじめから、不釣合いだったんだよ。あたしと、朔哉くん」
「そんなこと−」
「だから、ごめんね」
　そんなことはない。
　朔哉はそう言いたかった。
　だが、小雪は頑なだった。
「ごめんなさい」




「朔哉。今度の日曜遊ぼうぜ」
　またもクラスメートから誘われた朔哉は、ひとつ返事で答える。
「ああ」
「あれ？けど、朔哉。彼女がいるから、とか言ってなかった」
　気を使ってか、別のクラスメートがそう声をかけた。
「いや」
　朔哉のその返事を待って、例のクラスメートが嬉しそうに言う。
「やっぱ別れたんだ。ま、お前だったら、いくらでも彼女作れるだろうしさ。
　日曜は中野たちも一緒だぜ」
「お。よく連れてきたな。中野ってあのかわいい子だろ？」
「すっげー楽しみ」
　騒ぎ出したクラスメートを見て、朔哉は一人溜息をつく。
『実体のないもの、人の理想を押しつけられた空想の人物』
　自分がそれであるというのならば、小雪も朔哉にとって偶像だったのかもしれない。
　自分のことをわかってくれる、唯一の人だと。

　でも、いつか。
　本当に俺をわかってくれる人と、俺は出会いたい。