福山朔哉は苛立ちながら、手を伸ばした。
手に取った本の重みは思った以上で、片手で掴もうとしたが、思わずもう片方の手がその本を抑える。
　ふうと溜息をつくと、その動きでずり落ちてしまった眼鏡をあわてて持ち上げる。
　雄哉の眼鏡なんか、借りるんじゃなかった。
　朔哉はひとりごちて、年子の弟を恨む。
つい最近になって、突然、目の前の物がぼやけるようになった。
　仮性近視と言うらしい。
　すぐに治るものだから、眼鏡も必要ないって。いいじゃない、雄哉ので。
そう言った母の言葉を思い出して、また少し朔哉は苛立つ。
　違う。
　俺が苛立ってるのは、そんなことじゃない。
「よっと」
　そう声を上げて、もう一冊重い本を取ろうとした瞬間、足元がぐらついた。
朔哉がやってきた市立図書館は、かなりの規模で、ところどころに脚立があった。そして、朔哉はその脚立を利用して、目的の本を取ろうとしていたのだ。
「あ」
と思った時は、もう体が投げ出されていた。次の瞬間、ドタンという朔哉が落ちた音と、バサバサという本の雪崩が起こる音がした。
「いってぇ」
そう言って、顔を上げると、くすくすという笑い声がして、小さな女の子や、女子高生が朔哉を見て笑っている。
　ふと気づくと、上半身は床に投げ出されているのに、両足だけが倒れた脚立に乗っかって、しかも眼鏡は半分ずり落ちていた。
「はは、どうも」
　確かに滑稽な恰好だ。だが、こんな風に笑われるのは、久しぶりという気がした。
　こんな無様な恰好、寛子だったらまた「らしくない」って言うんだろうな。
　朔哉はつきあって３ヶ月になる彼女の、ちょっと小悪魔的な顔を思い浮かべながら、眼鏡を直して立ちあがろうとした。
　朔哉の通う中学校でも寛子は美人で通っていたし、そんな寛子につきあってくれと言われ、断る理由はなかった。かくて、関谷中一の美男美女カップルが誕生した。
　好きかと聞かれれば、嫌いじゃないと答える。
　朔哉の寛子への気持ちは、しかしそんなものだった。
　そう考えて、苛立っているのが、寛子にいわれた言葉だったことに朔哉は気づく。
「朔哉らしくない」と。


「あの、大丈夫ですか？」
　ふいに声がして、朔哉は顔を上げた。
　ふっくらと白い頬が、やわらかそうだった。
　肉まんみたいだ。
　というのが初対面の印象だった。
「あの−」
「大丈夫、大丈夫」
　朔哉はそう言って、にっこりと笑った。そうすれば、たいていの相手は微笑み返してくれていた。しかも、女性であったら、少し惚けるくらいに。また、そういう朔哉の写真が、学校で朔哉のファンだという女生徒たちの間で取引されていることも、朔哉は知っていた。
　つまり、そのくらい魅力があるらしい。
　だが、その女の子は、惚けることもなく、心から心配そうな笑みを浮かべるだけだった。
　あれ？おかしいな。
　そう思った朔哉は、自分が眼鏡をかけていた事を思い出す。
　そうか、俺が福山朔哉だってことに、気づいてないのか。
　良かったのか、悪かったのか、とりあえず朔哉が取った行動は、眼鏡をかけ直し、前髪を額に下ろす事だった。
「大丈夫、だから」
　そうだった。福山朔哉だったら、こんなヘマをしちゃいけない。
　ヘマをしたら、寛子のようになかば呆れた顔で「らしくない」というはずだから。
　関谷中のアイドル・福山朔哉は図書館で、脚立から転げ落ちたりはしないんだから。
立ちあがり、朔哉は落ちた本を拾い上げる。女の子もそれを手伝う。
「ありがとう」
「いえ」
　片付け終わった朔哉は、目的の本を抱えて、貸し出しカウンターへ歩き出す。だが、先ほどと同じ声が朔哉を引き止めた。
「あの」
「はい？」
　振りかえると、その女の子はバンソウコウを朔哉に差し出して、鼻の頭を指した。
「ここ、ぶつけて赤くなってるから。これでよかったら」


「どうしたの、朔哉。その顔」
　家に帰ってくるなり、母親がそう声を上げた。朔哉は気づいてなかったのだが、頬にも本で切ったのか、赤いみみず腫れができていた。
「ああ、ちょっとね」
　まさか、脚立から落ちたとは言えずに、朔哉はそう答える。リビングでテレビを見ていた弟が嬉しそうに言う。
「俺の眼鏡、壊して。あ、オンナだろ？」
「そんな言い方止めなさい、雄哉」
　ニヤニヤと笑う雄哉を叱ってはいるが、考えているのは同じようだった。
「まあ、朔哉も女の子ともめるのはほどほどにしなさいよ。それから、雄哉。お風呂入りなさい」
　母親のお小言に、朔哉は溜息をつきたくなった。
　部屋に入って、ベッドにダイヴする。
　本当の自分に朔哉がなれるのは、家の中でもこの空間だけだった。

　いつからだか、気づいてしまった。
　周りがみる俺と、本当の俺の違い。
　周りがみる福山朔哉は、優等生で、かっこよくて、優しくて、サッカーも県選抜に選ばれる皆のアイドル。
　でも本当の俺は、そんなかっこよくなくて、そしてそれを正直に言えないくらいの小心者だ。
　だから、全てに必死だった。
　必死に勉強もしたし、必死にサッカーの練習もしたし、必死でいい人であろうとしてる。
　でも最近、それが重い。
　そのせいか、最近はスランプに陥っていた。
　四試合連続無得点。
　市内では向うところ敵なしと言われる福山朔哉が。
　そんな俺に、寛子は言ったんだ。
「朔哉らしくない」
　と。



　翌日、学校で朔哉を見つけた寛子がまず言った。
「かっこ悪い」
　鼻の頭のバンソウコウというのは、何故か人をピエロにさせる。実際、朔哉は学校に来てから、いろんな女の子に心配されながらも、どこかその表情が笑っていることに気づいていた。
　手を伸ばして、そのバンソウコウをはがそうとした寛子の手を、朔哉は振り払う。
「仕方ないだろ、怪我してんだから」
　寛子は払われた腕を胸の前で組んで、明らかに不機嫌に言った。
「らしくない」
「…わかってるよ」
　会話をする気も失せた朔哉を、それでも寛子は追ってきた。
「ねえ、どうして怪我したの？」
「どうでもいいだろ？」
　本当のことを言えば、また寛子が「らしくない」ということくらい、朔哉にもわかっていた。朔哉が珍しく冷たくあしらうので、寛子も少し不安にかられ、媚びを売るように朔哉の腕を取って、甘えるように聞く。
「女の子と喧嘩した？」
　小首を傾げる寛子を見て、朔哉は気づけばこう言っていた。
「寛子がいて、どうして他の女の子に殴られるんだよ」
　つまりは、寛子だけが特別な彼女だということだ。
　言った後で、朔哉は軽く後悔する。だが、寛子は満足そうに微笑んだ。
「そうよね、うん。やっぱり」
　声に出さない溜息の出し方を、いつのまにか朔哉は覚えていた。
　寛子や、母親や、他のクラスメートに対してではない。
　自分に対する溜息のつき方だった。


　朔哉はこの図書館が実は好きだった。
　しんと静まり返ったなかで、微かに聞こえるページをめくる音や、ペンを走らせる音が聞こえ、一人でいながらも、孤独を感じさせない場所だったから。
　結局雄哉の眼鏡をまた借りて、朔哉はサッカー部の練習をさぼって図書館にくるようになった。眼鏡というのは、どうも朔哉の風貌を変えてしまうようで、ちょっとだらしなく制服を着て、前髪を下ろしていれば「福山くんだよね」なんて声をかけられることもなかったからだ。
　目的の本を借りて、外に出た途端に、冷たい北風が朔哉の頬を吹きつけた。首をすくめた朔哉の横を、見覚えのある顔が歩いていく。
「あ」
　思わず声をかけると、その相手は振りかえって頭を下げた。
「こんにちは」
　肉まんに似てるといったあの女の子だった。にこっと微笑むまっしろい頬が、この寒さの中で赤くなっていた。黒くサラサラの髪が、風に舞った。
　とくん。
　何かが、朔哉の中で動いた。
「あのさ、あのっ、肉まん…」
　慌ててそう叫んだ。
　そもそも、名前すら知らないんだった。
　だが、相手は立ち止まり、朔哉の顔を見つめている。
　思わず朔哉は言った。
「肉まんでも、食べない？」


　名前は佐藤小雪。
　年はひとつ下で、隣町の上木中学の一年だった。
「わたし、トロイから、人よりいっぱい勉強しないと追いつけなくて。だから図書館で勉強してるんです」
　この前のお礼にと、買ってあげたほかほかの肉まんをほうばりながら、小雪は朔哉の質問に丁寧に答える。
　猫舌なのか、一口ひとくち、ふうふうと息を吹きかけながら食べる小雪を見ているだけで、朔哉はなんだか和んでいた。
「偉いね。でも、上木中って遠くない？」
　自転車でも、３０分はかかる。だが、小雪はこの寒い中、そうやってこの図書館まで来ているのだ。
「でも、この図書館好きだから」
　そういって、最後のひとくちを食べ終わった小雪は、丁寧に頭を下げて、ごちそうさまでしたと朔哉に言った。



　寒さが厳しくなったせいか、昼休みでも教室に残る男子生徒が増えていた。朔哉はその中で、ぼんやりと窓の外を見ていた。
「なぁ朔哉。この子かわいくない？」
　クラスメートがそう言って朔哉に声をかける。彼らはいつも、雑誌を見ては、女の子の評価を下していた。朔哉はその姿を、いつも傍で見ているだけだった。
　それだけで、かわいいとか、かわいくないとか、わかるわけないじゃん。
　彼らがかわいいと言う寛子ですら、朔哉にはそうも思えないことがほとんどだ。
「お前らも飽きないね。で、何それは」
クラスメートが見ているのは、陸上競技会の新聞のようなもので、一ページには出場選手の顔写真が載っていた。
　その表紙を見て、思わず朔哉は声を上げる。
「あ」
「何？気に入ったのがいた？」
　そこには、昨日話をしていた佐藤小雪の顔写真と、『一年生ながら、優勝！佐藤（小）』という文字が見える。
「まぁ、うん」
　やっぱり、人は見かけによらないものだと、朔哉は一人納得していた。



　再び図書館でその姿を見かけた朔哉は、呼びかけもせずにこう言った。
「全然トロくないじゃん。佐藤サン」
「え？」
　突然話しかけられたせいか、小雪は目を見開いて朔哉を見つめる。
「見たよ、県の競技大会の結果。県で一番なんだね」
　すると小雪は少しだけ照れたように微笑んで答える。
「それ、妹です」
「妹？」
「佐藤小巻。双子なんです」
　朔哉は自分の記憶をたぐる。
　確かに、もう少し頬かこけてたかもしれない。
「小巻ちゃんはすごいんです、何でも出きるの。陸上も、勉強も。明るいし、人気者なんです」
　悪いことを言ってしまった。
　朔哉は反省をした。
　とかく兄弟は比較されやすい。それゆえに、どちらかが優秀であれば、反対側はコンプレックスを持ちやすいのだ。
　「そう」
　そう答えながらも、朔哉は別の話題にしようと思うのだが、その前に小雪が言った。
「お母さんにいつも言われるの。双子なのに、どうしてこうも違うんだって。−あ、ごめんなさい」
「いや」
　朔哉はそう答える。おざなりに天気の話でもしようとしたが、その言葉を遮って、小雪は話を続けた。
「別に僻んでるんじゃなくて。その…。小巻ちゃん、すごい頑張りやなんです。人の期待にこたえなきゃって、頑張ってて。でもよく、言われます。小雪はいいなって。同じだけ頑張っても、お母さんが頑張ったって褒めるのは、いつも小雪だって」
　どこも、そうなんだな。
朔哉はそう感じた。
　親というのは、どうもできの悪い子ほど気にかかるらしく、結局良い子の方はほったらかし。
　だから、ますます頑張ってしまうんだ。
　褒められたくて。
だが、小雪はこう続けたのだ。
「でも、そんなことないんです。だって、本当は小巻ちゃんの方が頑張ってるから。それが他の人からすると、普通に見えちゃうみたいだけど。あたしは、小巻ちゃんが頑張ってるの知ってるから。すごいなっていつも思うの。
　だから、尊敬します。福山さんも」
「え？」
　突然名前を出されて、朔哉は戸惑う。
　小雪には、一度も自分の名前を出したことなどなかった。
　それに、福山朔哉として扱われもしてなかったのに。
ふふふと小雪は微笑んだ。白い頬が、赤らんでいた。その頬に触れてみたい。朔哉はふいにそう思った。
「有名ですもん。関谷中の福山朔哉さん。これからも、サッカー頑張ってくださいね」
　それじゃあと自転車に乗りかけた小雪を、朔哉は引き止めた。思わずずりおちた眼鏡も、そのままに。
「あのさ、小雪チャン」
　小雪が振りかえる。白い息が、その頬にかかっていた。
「今度、試合あるんだ。見に来てくれないかな」


　練習試合だったが、ギャラリーはそれなりに集まっていた。選手の親に、それから朔哉を目当てに来ている女生徒たち。
　その中から、朔哉は寛子を呼び出すと、体育倉庫の裏に連れてきた。
「何？話って」
　寛子は、完全防備の恰好だった。マフラーと、手袋と。おそらくカイロも山のように持っていることだろう。
「あのさ、寛子。俺たち、もう駄目だと思うんだ」
「何よ、突然」
　あまりに唐突だったのか、寛子はただでさえ大きな目をさらに見開いた。
「俺、お前の思うようないい男じゃないからさ」
「何言って−」
「もっと、本当は馬鹿だし、間抜けだし。全然かっこよくないんだ」
　そう言ってしまうと、どこかでほっとした自分がいた。寛子は腕組をしたままで、朔哉に尋ねた。
「別れたいってこと？」
「うん」
　しばらくの沈黙の後、寛子は言った。
「…わかった」


　練習試合だったものの、朔哉はハットトリックを決めた。
　その度に、女の子たちの声援が上がったが、そんなことは朔哉にはどうでもよくなっていた。ただ一人、小雪の姿を見つけたからだ。
　試合が終わり、朔哉はミーティングをすっぽかして、校門へと走った。そこには、出ていこうとする小雪がいた。
「小雪ちゃん」
　追いかけて、肩に手をかけて、朔哉は息を整えようとする。
「おめでとうございます。すごかったですね。ハットトリック」
　にっこりと微笑む小雪に、朔哉も思わず微笑み返す。だが、慌てて顔を引き締めた。
「うん。いや、それでさ」
「はい」
「小雪ちゃんって、彼氏いるの？」
　ちょっと間があって、小雪が小さな声で答える。
「…いえ」
「だったら、いや、だったらじゃなくて」
「？」
「つまり」
　朔哉は大きく息を吸込むと、正直に言った。
「君のこと、好きになった。俺と、つきあってくれませんか？」
　ゆっくりと肩に乗っていた手を離し、朔哉は頭を下げた。
　今までは、告白される側で、かっこいい告白なんて朔哉は知らなかった。
　それに、小雪の前では、そんなことは必要ないと思った。
　本当の俺でも、きっと。この子だったら。
　朔哉の呼吸が、落ちついた頃に、小さな声で、はい、という返事が返って来た。思わず朔哉が顔を上げると、小雪はその頬を赤らめて、恥ずかしそうにもう一度「はい」と答えた。
「…どうしたんですか？具合でも悪いんですか？」
　突然、朔哉が顔を手で覆って背を向けたので、小雪はびっくりして聞き返す。
　本気で心配しているのがわかるだけに、朔哉は顔を見せることができなかった。
「違うよ、その…。多分、今の俺ってひどい顔してるから」
「ひどい？」
「ひどく、にやけた顔してて、見れたもんじゃないからさ」
　ちょっとしてくすくすという小雪の笑い声が聞こえた。だが、その笑い声は決して朔哉をばかにしてるわけではないことを、朔哉は知っていた。
　ふいに、グランドの方から朔哉を呼ぶ声がした。
　朔哉は自分がミーティングもすっぽかして小雪を追いかけてきたことを思い出す。
「ちょっと待ってて。すぐに戻ってくるから。一緒に帰ろう。送ってく」
　笑顔と、それを必死で冷静な表情に戻そうとする朔哉に、小雪が慌てて声をかけた。
「福山さん」
「え？」
　まさか、今更断られるんじゃ。
　不安にかられる朔哉に、小雪は心配そうな表情で尋ねる。
「いいんですか？あたしで。肉まんみたいなあたしで」
　気づかれていたのか。
　朔哉は照れくさくなった。
　だが、そんなことでにやける自分も好きになれそうな気がしていた。
「俺、肉まん大好きなんだ」