クリスマス・イブの夜。
　ひんやりと澄んだ空気の中にも、暖かい笑い声と匂いが混じっている。
　それは、周囲の家々からこぼれてくる幸せとともに、星空の下にいる萌子の心に冷たい風を吹き込んでくる。
　ふと、今頃うちは、どうなっているのだろうと思う。
　家族で祝おうと準備していたにも関わらず、父は約束の時間よりも大幅に遅れて帰宅した。おかげで母の機嫌は悪く、萌子は夕食も食べないままに、ベッドにもぐりこんでいた。しばらくしてようやく父が帰宅したかと思うと、二人はすぐに喧嘩を始めた。
　いつものこととはいえ、聞いていて気分のいいものではない。
　萌子は温かい格好に着替えると、こっそりと家を抜け出し、近所の公園にある土管の中にもぐりこんだ。
　雪が降ってもおかしくないくらい、空気は冷え切っている。それでも、土管の中にいれば、少しはましだった。
「寒い…」
　思わずそう呟いて、萌子は持ってきていたぬいぐるみを抱きしめる。新品のそれは、決して気に入ったから連れてきたわけじゃない。いうなれば、手持無沙汰だったから。
　それに、小学五年生にもなってぬいぐるみなんて、嬉しくないよ。
　そう父に言いたかったけれど、サンタクロースからの贈り物として萌子の枕もとに置かれたものだから、何も言えない。
　どうやら母は、童話集を買ってくるよう言ったらしいのだが、父はそれを忘れてこのぬいぐるみを買ってきてしまった。萌子はそんな話も、二人の喧嘩から知った。
　ぬいぐるみを子供っぽいと罵倒した母には賛同できるが、だからといって童話集も萌子のほしいものではなかった。
　うさぎのぬいぐるみは、なぜか目ではなく鼻が赤い。
　萌子は、寒さを忘れるために、歌を歌い始めた。「真っ赤な鼻のトナカイ」は、萌子も好きなクリスマスソングだ。
　歌いながら、萌子は思う。
　…あたしの居場所は、どこにあるんだろう。
　…あたしのいる意味は、どこにあるんだろう。
　赤い鼻のトナカイの居場所を、サンタクロースは見つけてくれたのだとしたら、
　あたしの居場所は、誰が見つけてくれるのかな。
　寒いと言うのに、鼻の奥がじんと熱くなる。
　涙が流れそうになったところで、
「沢木？」
とふいに名前を呼ばれた。慌てて声のした方を見ると、土管を覗くようにして男の子が立っていた。
「遠藤くん」
　遠藤は、五年生の秋に萌子の学校にきた隣のクラスの転校生だ。
　綺麗な顔と、大人びた雰囲気に、萌子のクラスの女子まで大騒ぎしていた。だがそれも、初めの二か月ほどで、彼の母親がバツイチで、スナックというところで働いているという話が流れてからは、すっかりクラスのつまはじき者になっていた。
　萌子と知り合ったのは、学校の外だったけれど、お互い学校に居場所がないからなのか、すぐに気があった。
　とはいえ学校で話をすると、周囲が騒ぎたてる。いつしか萌子と遠藤は、互いの家からも近いこの公園でよく会うようになっていた。
　遠藤は土管に入り、萌子の隣に座ると、首を傾げながら、
「どうした？」
と言った。
「遠藤くんこそ」
「うちは、母さんと妹が大喧嘩始めたから、うるさくてさ」
　自分のところと同じだと思いながら、萌子は尋ねる。
「どうして喧嘩したの？」
「サンタクロースからのプレゼントがないって言われたから」
　萌子は自分も小さい頃を思い浮かべた。
　サンタクロースからの贈り物があると思っていた頃は、クリスマスは待ち遠しい日だった。
　だが、サンタクロースがいないことや、プレゼントをめぐって父と母が喧嘩をするようになってからは、どちらかといえば来なければいいとさえ考えるようになった。
「かわいいな。それ」
　ふいに遠藤が、萌子が抱きしめていたぬいぐるみを見て言う。
　萌子は微笑んで曖昧に答えると、聞き返した。
「遠藤君はサンタクロースに何かプレゼントもらったの？」
「妹がないのに、兄がもらえるわけないよ」
　拗ねているような言い方ではなく、当然という言い方だった。
　遠藤君らしい。
　萌子は、体を起こすと、ぬいぐるみを遠藤に差し出した。
「じゃ、これあげる」
　クリスマスプレゼントとわかっているからか、流石に遠藤の顔がこわばる。だが、萌子は強引にそれを遠藤の胸に押し当てた。
「妹さんにあげて。あたしがほしかったのは、コレじゃないから」
　遠慮がちにそのぬいぐるみが遠藤の手元に渡った時、萌子は正直ほっとした。
　このぬいぐるみを見るたびに、父と母の喧嘩を思い出さずにすむと思うと、安心できたのだ。おそらく遠藤のことだから、眠った妹の枕もとにこれを置くはずだ。サンタクロースからの贈り物として。
　遠藤はそのぬいぐるみを抱えたまま、もぞもぞとコートのポケットを探ると、それを萌子に差し出した。
「え？」
　それは使い古された手袋だった。
「汚いけど、おかえし。手、氷みたいに冷たいぞ」
　ぬいぐるみを渡した時に、どうやら触れてしまったらしい。
　手袋を忘れた萌子の手は、確かに何度も息で暖めようとしても、難しいほどに冷え切っていた。
「でもそうしたら遠藤君が、冷たいじゃない」
「俺は大丈夫」
　そういうと、今度は遠藤が強引にそれを萌子の手に押し当てる。そして、土管に寄りかかった。
　その様子を見て、萌子はくすりとほほ笑むと、右手に手袋をはめ、もう片方の手袋を遠藤に差し出した。
「はい。
　これは遠藤君の左手にはめて」
「それじゃ沢木の左手が」
　萌子は左手で遠藤の右手を掴んだ。驚いた表情の遠藤に、萌子はにっこりとほほ笑む。
「こうすればいい。
　こうすれば、二人とも、あったかい」
「そう、だな」
　互いの手を握り合いながら、二人は土管に寄りかかる。
「ねえ、遠藤君はサンタクロースって本当にいると思う？」
　ふいに萌子がそう尋ねた。
　少なくとも、自分の両親は萌子がサンタクロースはまだいるのだと信じていると思っている。
　だが萌子はずっとサンタクロースだと思っていたのは、両親なのだとずっと前に気づいていた。
「さあ。俺は、まだあったことないし、プレゼントももらったことないから」
　遠藤はそう答えると、だけどと小さく白い息を吐く。
「だけど、いてくれたらいいなって思う」
　その答えに、萌子は体を起こして遠藤に尋ねた。
「いてくれたら、何かプレゼント頼むの？」
　そうだな、と遠藤は急に真面目な顔になって答えた。
「早く大人にしてくれって、頼む」
　母親が一人で頑張っているのを見て、遠藤は早く独立して、自分が母親と妹を養っていきたいと考えていることを萌子は知っていた。
　夢物語に期待を膨らませていた萌子の気持ちが、一気に現実へと引き戻される。
　そっと土管に寄りかかったところで、遠藤が言った。
「沢木は？本当にほしかったものって何？」
　お母さんとお父さんの笑顔。
　そう思ったけれど、口に出すのは恥ずかしくて、萌子はごまかした。
「内緒」
「俺は言ったのに？」
　納得がいかないと言う表情の遠藤に、萌子は手袋をした右手を振る。
「…手袋？」
　頷くと、遠藤はそっかとだけ答えた。
　そうして萌子と遠藤は、手をつないだままに、しばらく土管の中にいた。
　相変わらず冷たい空気は吹き込んできたけれど、萌子の心はもう寒くはなかった。