「沢木っ、まったくお前って奴はっ」
　特別練習が始まると、柳田は萌子を呼び、怒鳴った。石橋も、一年以外の部員も皆グランドを後にして、今いる責任者は笠間や小山たちだけだった。いつものことながら、部員たちは、それを遠巻きに眺めながら、ボールを蹴っている。
　今日の怒りの理由は、多分一年部員の部室の使い方だった気がする。
萌子は今も続いているお小言の始まりを思い出そうとした。
　そう、たしか。制服を脱ぎ散らかしていることを怒っていたはずだ。
　一番始めに部室を出て、一番最後に戻るのが一年生である。時間がないところで、慌てて着替えるためなのか、皆が制服を床に捨てるように置く。そして、柳田たち三年は一年が荒らした後の部室を使うことになる。あまりに汚さに、ついに柳田は腹を立てたのだ。
　意外と、清潔好きなのよね、ヤナギさん。
　萌子がそう思って顔を上げると、柳田はまだお小言を続けていた。
「だいたいな、お前たちは―」
　美都に怒鳴りつけると、すぐに泣きそうになる。
　理香に怒鳴りつけると、反対に言い返される。
　一年全員を集めて怒鳴りつけると、体力を使う。
　そのために、いつも柳田の怒りを受けるのが、萌子だった。
　ふうと溜息をつきそうになった時、突風がグランドの土を舞い上げて、二人の間を通りぬける。
　…痛っ。
　萌子は目に異物感を覚える。どうやら塵がはいったらしい。思わず俯きながら、萌子は目を必死に瞬きして、塵を取り除こうとする。
「おいっ、沢木っ。おまえは俺の話をきちんと聞いているのかっ」
「はい」
　柳田に怒鳴られて、慌てて萌子は顔を上げる。その弾みで、萌子の目から、涙が一粒落ちる。
　ほろりと落ちた、その涙を見た途端に柳田は顔を真っ赤にすると、動きを止めて、言葉を詰まらせた。
「へ…。えっ…と」
　だが萌子は目の痛みがひどくなり、すぐに俯くと、目を擦った。柳田が顔を真っ赤にして、絶句するほど怒っているのが視界の端に映ったが、それよりも萌子にとっては、目の痛みの方が問題だった。いくら瞬きをしても、涙を出しても、痛みは増すだけだった。
「さ、沢木―」
「すみませんっ」
　叫ぶように言い残すと、萌子は一目散に校庭の隅の水道に向かって走っていく。真っ赤な顔のまま、硬直している柳田に、脇から様子を見ていた司が声をかけた。
「あーあ、ヤナギさん。沢木のこと泣かしてやんの」



「ふぅ…」
　水道で目を洗い、痛みが取れた萌子はようやく一息つく。水飛沫が萌子の顔や前髪も濡らしていた。どうせなら、と萌子は顔もパシャパシャと洗う。冷たい水が気分をパリッとさせた。
　タオル、タオル…。
いつもの癖で、水道の脇にタオルを探すものの、もちろんそこにタオルはない。
　あ、そうか。持ってきてないんだった。
　そう思った途端、萌子の頭に何かがふんわりと乗った。何？と慌てて手で触れると、柔らかく、取ってみるとタオルだった。思わず顔を拭きつつ、萌子が顔を上げながら話しかける。
「ありがとう…。あれ？」
　誰かがいるものと声をかけたが、そこには誰もいなかった。肌触りのよい薄いブルーのタオルを見つめ、萌子はしばし立ち尽くしていたが、はたと思い出す。
　練習に戻らないと、またヤナギさんに怒られちゃう。
　今も、お説教中に抜け出して来ちゃったし。
慌ててグランドに戻ろうとした萌子に、そのとき体育教師が声をかけた。
「沢木、ちょっと頼んでいいか？」



　特別練習前の合間に、グランドを抜け出し、水を飲んでから練習に戻った一馬は、時々後ろを振り返りながら、壁パスの練習をしている列に加わる。そして、前にいる厳己に聞いた。
「萌子、何かあったのか？」
「え？」
「今すれ違ったんだけどさ…。泣いてたみたいなんだよな。目に涙浮かべて」
　その言葉に、一緒に並んでいたケンや和美も加わる。
「涙？…そういえば、柳田さんに怒られてはいたけど」
「いつものことだろ？そんなの。いわゆる愛情の裏返しってヤツ？」
「けど、泣くか？萌子がそれで」
「見間違いだったんじゃねぇの？一馬の」
　最後にはそうケンにまとめられて、一馬も首を捻る。
「かなぁ…。あ、藤原も見ただろ？萌子の涙」
　同じく、先ほどまで水を飲んでいた右京に一馬が尋ねる。右京は、少し悩む仕草を見せてから、
「ああ」
とだけ答えた。




　つくづく萌子は、今日がついていない日だなぁと大きな段ボールを抱えて思っていた。
　柳田には変なことで叱られて、目には塵が入り、挙句の果てには、体育教師に捕まって、大量のソフトボールを体育倉庫に持っていくように命ぜられたのだ。おかげでグランドに戻ってくるのに相当時間がかかっていた。
「よっと…あれ？」
　突然荷が軽くなったかと思うと、萌子の正面から、段ボールを持つ人間がいた。
「どこに持ってく？」
　湊だ。
「えっと、体育倉庫だけど…。練習、いいの？」
　グランドでは、特別練習中の一年がボールを蹴っていた。
「大丈夫」
　湊はそう言うが、萌子は気になって仕方が無かった。
「けど、ヤナギさんが…」
　そう思ってグランドを見まわすと、何故か柳田の姿は見当たらない。
　特別練習だから、先に上がったのかなぁ。
　萌子はそう考えると、すでに歩き始めていた湊を追いかけた。湊は萌子が苦労して運んでいた段ボールを楽々と体育倉庫まで運んでくれた。
「ありがとう。助かった」
　その後の作業も手伝うという湊に、萌子は運んでくれるだけで十分だと言った。湊は何となく心残りがありそうな表情を浮かべると、言った。
「萌子」
「ん？」
「我慢、しなくていいからな」
「…？うん？」
　確かにソフトボールに名前を付け、籠に入れる作業は、理不尽ではあるけれど、我慢をしてやるほどの仕事でもない。萌子は首をひねりながら、練習に戻る湊の背中を見送った。


　その湊と入れ違いのように、明るい声が体育倉庫に響いた。理香と美都だ。
「萌子っ、あたしたちも手伝う」
「練習はいいの？」
「大丈夫。笠間さんがいるから」
「…そう」
　戸惑っている萌子を尻目に、理香も美都もすでにソフトボールを手にしていた。
「ねえ、これを出すの？」
「うん。それで学校名書いてほしいんだって」
「了解っ」
　二人はそう答えると、さっさとボールに名前を書き始めた。一瞬二人を見つめていた萌子も、慌てて倣うようにしてマジックを手にした。


　二人が手伝ってくれたおかげで、作業は思ったよりも早く終わった。作業を終えた二人は、小山に呼ばれて、萌子を残し、先にグランドに戻っていた。
「ふう」
　最後のひとつを書き終えたところで溜息をつくと、ドアがノックされて、由太が顔を出した。
「…どうしたの？由太」
　由太は軽く萌子に会釈すると、放り出された段ボールを掴み言った。
「捨てておく」
「あ、うん。でもわたしがやる―」
　だが、由太は萌子の言葉も聞かずに段ボールを抱えて体育倉庫を出て行ってしまった。残された萌子は、首を傾げた。


　頼まれたことが終わったからと、グランドに戻ると、笠間が萌子に声をかけてきた。
「あ、沢木はもういいよ」
「え？」
　唐突に言われて、萌子は戸惑う。ただ笠間の様子からすれば、別に怒っているわけでもなさそうだし、むしろ心配すらしてそうな表情だった。
「今日は疲れたろうから、帰っていいよ」
「でも―」
　理由が無いのに帰るのも、と萌子が戸惑っていると、笠間がいつになく命令するような口調で優しく言った。
「帰りなさい」
「は…い」
　とぼとぼと、部室へ向かう萌子には、グランドを部員たちが走っている音、掛け声が聞こえる。その中を、ただ一人自分だけが去っていくのが、それも「疲れている」ということで帰らされる自分が、萌子にはわからなかった。
「萌子っ」
　ふいに名前を呼ばれて振りかえると、いきなり何かが飛んできた。慌てて萌子はそれを受け取ると、購買のメロンパンだった。顔を上げると、興仁がハハハと笑顔を見せていた。
「え？これ？」
「うまいぞ」
　どうしたの？という萌子の前に、興仁はそう言うと、萌子の背中をバンっと軽く叩いて言った。
「やるよ。これ食べて、元気出せよ」
「…ありがと」



　いったい、何がどうしちゃったんだろう。
　萌子は首をひねりながら部室に戻ってきて、ふいに柳田にいわれたことを思い出した。
　部室の整理整頓。そうだ、今なら部員いないはずだから、片付けてしまおう。
　だが、ドアをあけると、すでに部室は片付けられており、篤志たちが箒を持って掃除すら始めていた。
「篤志に、厳己。練習は？」
「いいのいいの。それよりごめんな、すぐ片付けるからさ」
　え、でも、と萌子が戸惑っていると、厳己が微笑みながら言う。
「萌子は、こっちのことはいいからさ、もう着替えたら？」
「え…でも」
「ほら、さっさとミーティングルームに行くっ」
　篤志に背中を押され、萌子は渋々部室を出た。


　何か、あったのかな。
　着替えが終わり、ロッカーを閉めたところで萌子は溜息をついた。つい十五分くらい、グランドにいなかっただけで、皆の態度が全然違っている。
　でも、何が？
　そのとき、ドアがノックされて、萌子が返事をすると、外のドアから朔哉が顔を出した。
「入っていいかな？」
「あ、はい」
　どことなく、視線の泳ぐ朔哉に、萌子は戸惑いながらもそう答える。その答えを待っていると、朔哉がいつになく真剣な表情で、ようやく萌子に視線を留めた。
「あのさ、モエチャン。無理はすることないから。嫌なことがあったら、俺にでも言ってよ」
　真摯な視線を受けて、萌子は聞いてみることにした。
「あの、福山さん」
「うん」
「…どうか、したんですか？」
「どうかって？」
「だって皆、よそよそしいくらいに優しくて、何か悪いことしたかなって―」
「モエチャンは悪くないんだって。悪いのは、いつものことだからってそのままにしてた俺たちと、ヤナギさんなんだから」
「え？」
　萌子の言葉を遮るほどの強さで、朔哉に言われ、萌子は戸惑う。その表情を見た朔哉も思わず萌子を見つめ返し、二人の視線が交差したときだった。
「萌子…あ」
　いきなり部室側のドアが開いたかと思うと、そこから成が顔を出し、萌子と朔哉の顔を交互に見つめていた。その表情が曇ったことに気づいた朔哉は、思わず萌子から一歩離れる。萌子も視線を成に向けて、尋ねた。
「どうかした？成」
　成は遠慮がちにだが、ミーティングルームに入った。
「部室。片付けたからさ。これからも、気をつけるから、ごめん」
　深深と頭を下げる成に、萌子は更に戸惑った。
「ごめんって？」
　成は朔哉を俯いたままで見上げる。朔哉は、自分は聞いて無いということの意志表示なのか、成の方は見ずに背中を向けた。それで成は顔を上げた。
「だって萌子、それでヤナギさんに怒鳴られたんだろう。しかも、俺が一番汚いって」
　だからお前のせいだぞ。
　萌子が泣いたの。
　ケンにそういわれて、成は萌子が着替え中かもしれないことを忘れ、ミーティングルームのドアを開けたのだった。
　だが、当の萌子はきょとんとして答える。
「…たしかに怒られたけど、別に成のことってわけじゃなかったよ」
「え？」
　今度戸惑ったのは成の方だった。
　萌子がどうしてそんなことを成が知っているのかと聞こうと思った時、今度は外からのドアが開け放たれた。風と共に、現れたのは知朗だ。
「萌子っ、大丈夫かっ？！」
「とっ知朗？！」
　そしてミーティングルームにずかずか知朗は入ってくると、萌子の両肩を掴み、萌子の顔に唾がかかりそうなくらいの勢いで言った。
「ヤギに苛められたんだってな。俺があとでコテンパンにしてやるから、安心しろっ」
　ヤギ、というのはもちろん柳田のことである。
　萌子は知朗の勢いに思わず後ずさりながらも尋ねる。
「え？柳田さん？どうして苛められたって？」
　横から朔哉が言う。
「だってモエチャン。さっき泣いてただろ？」
「さっき？」
　あっけらかんとしている萌子に、思わず成も言う。
「すれちがったとき、涙流してたって一馬も言ってたけど」
　すると萌子はごくごく普通に答えた。
「あ、目に塵が入っちゃって」
　一瞬だが、吹きこんできた風が、止まったように思えた。
　そして、ゆっくりと、知朗の手が、萌子から離れる。
「マジ？」
　やっとそう言った知朗に、萌子は戸惑う。
「うん…まずいかな」
　萌子は三人の顔を見まわす。
　顔を硬直させている知朗。
　目を見開いている成。
　そして、頭を抱えた朔哉が言った。
「かなり」
　だから。
　みんな優しかったんだ。
　萌子がやっとそう理解したところで、ドアがノックされ、顔を出したのが柳田であった。柳田は成たちに戸惑いながらも、真っ直ぐ萌子の前にやってくると、珍しく小さな声で言った。
「…沢木」
「あっ、はい」
　途端に、柳田は床に座り込み、頭をぶつけそうな勢いで土下座をした。
「その…。さっきは悪かった。俺も、ちょっと言いすぎた」
「えっ…」
「反省してる。だから、許してくれ」
「え…と」
　萌子が思わず三人に答えを求めると、三人が同時に「言うな」と目で訴えていた。
　目に塵が入って涙が流れたなどといえば、おそらく柳田は萌子を怒鳴りつけるに違いなかった。だが、このまま柳田に土下座させておくのも、萌子には気が引けた。
　返事に困っていると、明るい笑い声がミーティングルームに響き渡った。
「ハハハハッ、ヤナギさん、マジにすんなってば」
「何だ大槻、人が真剣に謝ってるってのに！」
　柳田が顔を上げて言うと、その姿を指差して、さらに司は笑い。それから萌子に視線を向けた。
「つーか、別に沢木、ヤナギさんに怒られて泣いてたわけじゃねぇだろ？」
　ばれた。
　表情を強張らせた萌子たちとは反対に、柳田は眉をひそめる。
「…へ？」
「泣いてたにしても、他にやなことがあったか、男に振られたか、もしくは目に塵でもはいったんじゃねぇの？」
　柳田が項垂れる。思わず萌子たちは後ずさりをするが、司はそれに気づかないのか、楽しそうに話しつづける。
「ヤナギさんも、甘いねェ。あの程度の女の涙に騙されるなんて、気をつけないと変なのにつかまるぜ」
　柳田はわなわなと背中を震わせてたかと思うと、何かが切れてしまったのか、突然地響きのような低い声を出した。
「おーおーつーきーっ!!」
　立ちあがり、手を伸ばす柳田よりも、やべっと小さく叫び、司が逃げ出す方が、ほんの僅かだが早かった。二人はドアの横に立っていた成の脇をすり抜けて部室へと駆け込むと、そのまま着替え中の１年の間を駆けまわっている。
「おいこらっ、待ちやがれっ、大槻っ」
　怒鳴りながら、柳田は篤志たちがせっかく綺麗に掃除をした部室を汚していく。
　そんな中に、右京が遅れて戻ってきた。入った途端、唖然として立ち止まっている右京の脇を、司はすり抜けるようにして部室を飛び出していく。もちろん、柳田も追いかけて行く。その時の風で、右京の首にかけられていた青いタオルが床に落ちる。それを拾った篤志が呟いた。
「掃除、やり直しかな」
　だがそれに答えられる人間は誰もいない。
　沈黙の中で、ふいに萌子が呟いた。
「やっぱり、私が悪いんですかね…」
　そんな萌子に朔哉が答える。
「モエチャンには関係無いよ。多分」