その日も、笠間は川べりにあるグランドにやってきていた。
　選手権も終わり、大学も推薦でいくことが決まっていたから、何となくもてあましていた放課後、偶然通りかかったそこで、少年サッカーチームの練習が行われていた。
　そして足元にボールが転がってきたことから、ついつい笠間はボールを蹴り返した。
　それが始まりで、気づいたら毎週末はここに来ては、少年たちにサッカーを教えるようになっていた。
　大学が始まるまでの長い長い春休みを、そうして笠間は毎日充実した日々に変えていた。


　少年が蹴ったボールは、笠間の足元ではなく、その頭上を越え、気持ちいいほどにぽーんと大きく川沿いの歩道の方に飛んでいく。
「ごめんっ、お兄ちゃん」
　謝る少年に、笠間は笑顔を向けて、ボールを追いかけた。
　歩道へ上がる階段を上りきったところで、笠間は探していたボールを持ち、自分を見つめている女性に気づく。
　一瞬だけ、笠間は言葉を失った。
「…香織？」
　けれど、次の瞬間口にした言葉は、以前と変わりなく響き、そして呼ばれた方も、以前と変わりなく思える笑顔を笠間に向ける。
「こんにちは」
「どうしたんだ」
　笠間の記憶が正しいのであれば、香織に最後に会ったのは、笠間が高校一年の終わり頃だったから、約二年ぶりの再会になる。
「うん。ちょっと聞いたから」
　何を？と首をかしげる笠間に、香織は思い切ったように言った。
「この前偶然街で小山君に会って、聞いたから来てみたの。喬が、サッカー始めてるって」
　そうして、初めて会ったときと変わらない笑顔で香織は答える。
「元気そうでよかった」
　その言葉の持つ意味を、笠間は深く受け止める。
　初めて会った時と変わらないとは思ったものの、あの頃は素顔だった香織も、よく見れば薄化粧をしていた。
「お兄ちゃんー！！」
　何かを話そうと思ったところで、なかなか帰ってこない笠間を心配したのか、先ほどの少年が笠間を呼ぶ。
　戻らなければ。
　そう思った笠間の気持ちを察したのか、香織は、ゆっくりと右手を上げる。
「それじゃ、ね」
「ああ」
　笠間としても、特に香織を引き止める理由もなく、香織からボールを受け取ると、笠間は階段を降りていった。



　それは笠間が高校一年の夏の終わりだった。
　凪高サッカー部の上昇気流に乗るようにして、笠間もぐんぐんと実力を上げていた。そうして、一年生にしてただ一人のＡチーム選手に選ばれるまでになっていた。
　その日も笠間はスタメンとして登場をし、一得点を決めた。
　だがいくらスタメンに選ばれようとも、試合で活躍しようとも、一年生としての仕事は当然のように笠間にも与えられており、そのときもグランド整備をしていた。
「あの」
　フェンス越しに声をかけられ、笠間が振り返ると、セーラー服姿の女の子が立っていた。凪浜は紺のブレザーだから、別の学校の生徒なのだろうけれど、サッカーをやるために、この凪浜にやってきて、毎日がサッカー漬けにあった笠間には、それがどこの学校の制服かはまったく分からなかった。歳は同じくらいの女の子。ただ、とてもまっすぐ自分を見つめる目が印象的だった。
「すごく、感動しました。あなたのサッカー。輝いてて。
　私、サッカーって全然わからないけれど、でもあなたはきっとすごい人になるんだと思いました。
　あの、頑張ってください」
　力強く言われ、笠間は少し照れながら、ありがとうと答えると、突然彼女の目から大粒の涙が零れ落ちた。
　それがあまりにも突然で、笠間はひどく戸惑った。フェンスの向こうで通りかかる人が、怪訝そうに笠間を睨むようにしてみている。
　おそらくは、俺が泣かせたように見えるんだろうけど。
　笠間は、この一分未満の間に交わされた言葉を思い返すが、どこにも笠間が彼女を泣かせるようなひどい言葉は見当たらなかった。
　それとも、気づかぬうちに、俺はひどい言葉を言ってしまってたんだろうか。
　どうしていいかわからずに立ち尽くしていると、そんな笠間の姿を見て、慌てたように彼女が言った。
「ごめんなさい。私ってば。涙腺弱くて。感動すると、涙が止まらなくなって」
　そう言って、彼女は自分の手のひらで涙を拭ったが、止まらないのか次々と涙が溢れていた。
　見かねた笠間が、持っていたタオルを汗臭いけど、と言った上で差し出すと、彼女はありがとうと素直に受け取り、涙を拭った。
「笠間ぁ、女の子泣かせんなよなぁ」
　からかうようなチームメイトたちの声が聞こえ、笠間は思わず振り返って、彼らを睨みつける。だが、その誰もがにやついた表情で、笠間を見つめていた。
「ごめんなさい。練習中に」
　いいや、と首を振りながら、鼻が赤くなっている彼女を見て、笠間はその時微かに鼓動が跳ね上がったが、それを隠すようにグランドに戻ろうとしたところで、彼女が慌てたように声をかけてきた。
「あ、タオル…」
　今にしても、あれは奇蹟だったと笠間は思っている。
　気づけばすらすらと言葉が流れ出していた。
「来週も、練習試合あるんだ。よかったらその時にでも」


　笠間の誘いを受け、彼女はタオルを持って、練習試合に来るようになった。
　彼女は、真下香織といい、近くの女子高の一年生だった。
　その次の試合にも、香織は笠間の応援に現れ、冬を迎える頃には、二人は付き合い始めていた。
　感動したら涙が止まらないというのは、本当らしく、初めてのデートで見た映画でも、感動をして泣き出し、しばらくは映画館を出れなかった。おかげで、笠間はせっかく見栄をはって予約を入れたお店をキャンセルをしなければならなくなった。
　だけど、そんなことも関係ないくらい、二人は幸せの絶頂期だった。
　同じように、サッカー部における笠間のポジションも絶頂期だったのかもしれない。


　だが、定則の通りに、絶頂期は長くは続かない。
　そうしてまた、最高があれば、最低もある。
　それはある日、唐突にやってきた。
　しかも同時に。


　選手権に出場した笠間は、試合の最中に怪我をした。その選手生命を断ち切る傷は、そのまま笠間を取り巻く環境すら断ち切らせた。家族、友人、チームメイト、そして、恋人。
　笠間は、グランドに戻れなくなった。そのまま部活も休むようになり、学校も休みがちになった。
　それがきっかけだったのか、気づけば香織とも疎遠になり、そうして二人は二度と会うこともなく、別れたのだった。
「それじゃ、ね」
　そう言って、手を振った香織を笠間は思い出し、そしてずっと気になっていたことに気づいた。
　今日も俺のことをまっすぐ見れていなかったな。



　翌週末も、川原沿いのグランドの隅にその姿を見たときに、笠間は心の何処かで、やっぱり、と感じた。
「香織」
　声をかけると、香織も軽く手を振って、どこか待っていたのだと笠間も感じた。
　それは、香織の表情にあるのかもしれない。
昔は、そうそれこそ香織と付き合っていた頃は、気づきもしなかったのだが、マネージャーをやるようになって、笠間は人の表情から、相手の気持ちを少しだけだが感じ取れるようになっていた。
　明らかに、香織は何かを伝えるためにここに来たのだと、笠間にはわかっていた。
「ちょっといいか？」


　ベンチに座ると、思いのほか香織を小さいと感じる。
　実際そうかもしれない。
　この二年間で、笠間は身長が１５センチは伸びていた。選手になれないくせにと皮肉ったこともあるほど、背は伸びていたのだ。
　進路の話を尋ねたところで、香織は実は看護学校に春から通うのだと告げた。
「看護婦？」
「うん。少しでも、病人とか、けが人の人の役に立ちたくて」
　香織はそう答えたところで、大きく一息つくと、低く呟いた。
「ごめんね、喬」
　俯いたままで、香織は話し続ける。
「ずっと、ずっと謝りたかった。あの時、あの怪我をして一番辛かったのは喬だったのに、なのに私は、喬のこと支えてあげられなかった。ごめんなさいって、ずっと言いたかったの」
　ごめんね、ごめんなさい。
　香織は何度かそう続けた。
　おそらくは、二年間、ずっと思い続けていた思いだ。
　だが、香織は顔を上げることはなかった。
　だから、笠間は敢えて真正面を見つめて話を続けた。
「だから看護婦になるのか？」
「え？」
　僅かだが、険しくなった笠間の声に、香織が驚いたように顔を上げた。だが、笠間はその声を緩めないで続ける。
「もしそうなら、辞めたほうがいい。単なる罪滅ぼしのつもりかもしれないけれど、香織の為にも、患者の為にも、当然俺の為にもならないから」
　隣の香織を見つめると、まともに視線がぶつかる。
　笠間の願い通りに、香織はそのまま視線を逸らさずに、笠間を見つめ続けた。
　安堵の溜息が笠間からこぼれると、香織はますます不思議そうな顔をして、笠間を見つめ続けた。
「俺は、あれはあれでよかったと思う。
　もし、あの時香織に止められて試合に出れなかったら、それこそ香織のこと恨んでたはずだよ。
　香織は、もう俺のことで自分を責めることはないから。
　高校生だったんだ、俺たちは。
　高校生なのに、抱える問題が大きすぎて、だから逃げ出した。
　俺も、香織も。
　別に非難しないよ。当然だと思う。俺も、初めの頃は逃げ出してたし、マネージャーしてたときもやっぱり逃げてた。
　こうして、堂々とボールを蹴れるようになって、初めて立ち向かってると思うようになった。
　俺、後悔してないから。
　あの時、香織や先生たちの止める声を振り切って、グランドに出て行ったこと。
　結果はどうあれ、今まで俺は、『あの時誰かが止めてくれていれば』なんてこと、一度も思ったことはない。それは本当だ。
　あえて後悔したことがあったなら、香織を引き止めなかったことかな」
　冗談めかして言うと、笑うと思っていた香織の表情はむしろ強張ったように真剣に笠間に向き合った。
「ね、今からでも遅くないよね」
　だが笠間には、それが香織の罪滅ぼしに感じ取れていた。
「でも、俺はもう、あのとき香織が言っていたような、サッカーができる男じゃない。ただ、ボールを蹴るのが好きなだけの男だよ」
　そういえば、香織は諦めるはずだと笠間は思っていた。
　出会った頃のような輝くようなプレーで魅せるサッカーは、もう自分にできないことは、痛いくらいわかっていたから。
　だが、香織は小さく首を振ると、小さな声で答える。
「すごいプレーができるから、感動できるんじゃないわ。喬。
　だってわたし、ボールを蹴っているだけの喬を見て、すごく感動してるもの。
　あの時も、一目ぼれだったのよ。一生懸命ボールを追いかけて、きらきら輝いている喬に。でも、今の喬にも一目ぼれしちゃったのよ、私」
　笠間の目をまっすぐ見つめ、香織はそう言う。
　だが、途端にその瞳から、大粒の涙がこぼれる。
「やだ、もう…。私ってば」
　出逢った時のことを、笠間は思い出し、首に巻いていたタオルと取ると、そっと香織に差し出す。
「…汗。臭いけど」
「喬」
　涙ではっきりとは聞こえなかったが、香織は確かにそう言った。差し出したタオルの下で、しっかりと笠間の手を握り締めて。
「来週も練習があるから、その時にでも返してくれればいいよ」
　そう、間違っていたと気づいたのなら、いつだってそこからやり直せばいい。
　笠間はそう思い、香織の涙をそっと拭った。