なんて最悪な日なんだろう。
　沙穂は帰りの電車を待つホームでふと思う。
　金曜日の7時のホームは、いつもより人が少ないように見える。


　思えば朝から、ついてなかった。
　ファンデーションが綺麗に肌にのらなくて、おまけに髪型も決まらなかった。いい服の組み合わせもなくて、二度ほど着替えた。
　そもそも、寝坊をしたのが原因だった。
　でも、その寝坊の原因は、昨日の恋人の真人だ。明日の金曜日にご飯を食べたいと電話をかけると、真人の後ろから女の声がしたのだ。言いつめられて、真人は沙穂に内緒で合コンに行ったことを白状した。
　電話を叩ききるようにしたけれど、その後のフォローの電話もメールもなく、いらいらしながらベッドで携帯をにらみつながら眠り、目が覚めたらもう遅刻する時間だった。


なんとか電車にのりこむと、沙穂の鼻に、ツーンと酸味のあるあの臭いがした。オヤジ臭と呼んでいるその臭いは、沙穂の最も苦手とするもので、思わず電車を降りたくなったが、そんなことをすれば遅刻は決定的になる。
　ようやく降りる駅につき、ほっとしたのも束の間で、何故か沙穂の前の人間が、行く手を遮るように、人の波に逆らう大木のように立ちふさがる。沙穂が、すみません、という前に、後ろの人間が沙穂をどんと押し、玉突き状態となって、そのまま大木も駅のホームへと降り立った。大木は、しかしそのとき沙穂を睨みつけることを忘れなかった。

　やっと駅につき、会社へと駆け出そうとした時、並んでいた自動改札が、ブザーと共に閉まる。そのタイミングで、人の流れが逆流し、沙穂はサンダルの指先を、サラリーマンの革靴で踏まれた。小さく悲鳴を上げても、サラリーマンは何もなかったかのように、別の自動改札に並び始めた。

ついてないことは、そのままずっと沙穂につきまとう。
まずは、朝からトラブル処理。営業の注文ミスを、沙穂はまるで自分のことのように、卸会社に謝りをいれる。営業のミスだというのは簡単だけれど、それをそのまま伝えてしまうと、社内のミスをさらすことになってしまう。
　やっと処理が終わったと、気付けばお昼で、しかし周りには誰一人いなかった。皆、沙穂が忙しそうなのを見かねて声をかけなかったようだ。仕方なく、コンビニでおにぎりを買って一人で食べる。
　虚しくなって、思わず真人にメールを送ろうかと思うが、ふと昨日から何の連絡もないことを思い出して、もっと不機嫌になった。

金曜日の夕方なのだから、何となく浮き足立った空気が広がっている。
その中にいて、自分だけはどんよりと暗い。
　沙穂はそんな風に思いながらも、真人のことを考えないために淡々と仕事をこなしていく。そんな沙穂の耳には、新人の女の子の妙に高い笑い声が響く。
　仕事に集中したくとも、その笑い声が頭に残ってしまう。それと一緒に、つい考えてしまう。昨日の真人の後ろで聞こえた女の笑い声。
　お互いに一人暮しだから、金曜日の夜にどちらかの家に行くのは、約束はしてなくても決まりごとのようになっていた。
　今日も、行ってしまおうか。
　ふと寂しさで、そう思ったが、すぐに笑い声がして、沙穂は頭を切り替えた。
　やめよう。だって、なんの連絡すらないんだもの。
　わたしからするべきじゃないもの。

終業時間を過ぎても、結局真人からの連絡はなかった。
新人の女の子たちは、きゃぴきゃぴと男の先輩と話をしている。どうやら、彼女たちは彼らにご飯を誘われたらしかった。でも、それぞれの事情で、その誘いを断る声だけが、沙耶子に聞こえてきた。
　私にきたら、どうしよう。
　真人との約束はない。
　けれど、その男の先輩のことを沙穂はあまりいい印象を持っていない。
　暇な時間を持て余し、すきでもない人間と過ごした後の、あのなんともいえない無常感を沙穂はもう知っていた。
　でも、このまま一人で金曜日を過ごすのは、なんだか寂しい。
　でも…。
沙穂の悩みは、しかし、先輩のおつかれという声と足音と共に、消えていった。

私って、生きてく価値がないのかもしれない。
帰りの電車に揺られながら沙穂は思う。
　金曜の夜に、何の予定もなくて、さっさと家に帰るなんて。
　恋人はおろか、会社の先輩にすら声をかけられないなんて。
　きっと、真人も、昨日のコンパで新しい彼女を見つけたんだろうし。
　きっと、突然会社を辞めても、誰も何もいわないだろうし。
　きっと、あたしが突然いなくなっても、誰も探さないだろうし。
　きっと、あたしは。価値がないんだ。
電車は静かに駅につく。沙穂は力なくホームに下りた。
　きっと、きっと…。
ふと、足元にハンカチが舞い落ちる。それは黄色の花柄のハンカチで、前を歩く女性の鞄から落ちたようだった。
　慌てて拾い、すみませんと沙穂が声をかけると、その女性は振りかえった。
　歳は沙穂と同じくらいであろう女性だった。清潔感があって、沙穂は素直に美人だと思った。
　彼女は、沙穂が拾ったハンカチを見止めると、一瞬驚いた表情をして、それから笑顔に変わった。
「ありがとうございます」
そして、沙穂からハンカチを受け取ると、軽い会釈をして、女性は改札を出ていった。
　ありがとうございます。
その人は、ただお礼を言っただけだ。沙穂にしても、特別なことをしたわけでもない。
　けれど、どうしてだろう。
沙穂には、とても大切なことを言われたような気がした。
　ありがとうございます。
心の中で反芻していると、携帯が鳴った。着信は真人だった。
　昨日の怒りと、今日の苛立ちを忘れ、沙穂は笑顔で、もしもし、と言った。