それは、偶然見つけた、小さな小さな綻びだった。
　

「あ、谷崎さん。ここ、ボタン取れかけてますよ」
「…ああ。うん、ありがとう」
　谷崎さんは私が指差したワイシャツの右袖を見つめた。
　いつもながら、センスのいいスーツ。
　薄いサックスブルーのシャツに、茶色と薄いベージュの水玉のネクタイ。
　私のお気に入りの組み合わせだ。
　谷崎さんはいつも、きちんとスーツを着こなしている。シャツはいつだって新品のようにしわ一つなく、ネクタイもよれっとくたびれてなどいない。
　だから、意外だった。
　ボタンを取れそうなままで、仕事を始めようとしている谷崎さんが。
「あの。ソーイングセット、持ってないなら貸しましょうか？」
　流石につけてあげます、なんていうとずうずうしく思われてしまいそうだった。
　谷崎さんは、少し戸惑った表情を見せた。
「え、っと。いいよ。大丈夫」
　少しでも、そこに嫌な気持ちが見えたら、多分わたしはそこで引いていた。でも、谷崎さんの表情はそれとはちょっと違っていた。
「遠慮しないでください。はい。どうぞ」
　差し出したソーイングセットと、私を見比べて、少し悩んでから、耳元で囁くように谷崎さんが言う。
「笑わないでほしいんだけど」
「はい」
「ボタンつけ、できないんだ。俺」
「ええっ。だってっ」
　谷崎さんは、オールマイティなひとだ。
　仕事もできる。
　人当りもいい。
　手先も器用。
　スーツのセンスだって抜群。
　しかも、料理も上手。
　綺麗好きで、多趣味。
　絵も描くし、ギターも弾く。
　そして、何よりルックスがいい。
　つまり、非のうちようがない人で、だからボタンつけなんて簡単なこと、ささっとできると思っていた。
　ごめんねと、自分のデスクに戻ろうとしてる谷崎さんを、私は思いきって呼び止めた。
「あの、私。やりましょうか」


「ごめんね、ありがとう」
　流石にデスクでつけると目立つということで、谷崎さんはわたしを連れて屋上にやってきた。
「いいえ。でも、ここのボタンも取れそう。こっちは彼女にやってもらってくださいね」
「いないよ、彼女なんて」
　またまたぁ、と私は針を持っていないほうの手を大きく振った。
「嘘。谷崎さんに限って、それは嘘」
　でも、谷崎さんは少し恥ずかしそうに微笑むだけだった。
　ってことは本当？
　信じられない。
　でも、社内でも人気がある谷崎さんに限って。
「…最近、ふられちゃったとか？」
「ここ三年くらい、彼女はいない。
　本当だよ。みんな信じてくれないんだけどさ」
　恋愛、したいんだけどなぁと谷崎さんが呟く。
「信じませんよ、誰だって。谷崎さんならよりどりみどりって感じだもん」
「よりどりみどりってね。バーゲンじゃないんだし」
「きっと理想、高過ぎるんですよ。谷崎さん」
「そんなことない。ふつーの子で充分だよ」
「えー。だって、谷崎さんでしょ？オールマイティで、何でもできるし。センスもいいし」
　何でもできる。
　それを聞いた谷崎さんは、小さく溜息をつく。
「…だからさ、練習するのやめたんだ。ボタンつけ」
「え？」
「何でも一人でできるようになったら、きっと一人でも生きていけてしまうから。
　一人でいいって思いそうだから。だから。ボタンつけだけはできない男でありたいんだ、俺は」
　パチンと音を立てて、鋏が糸を切り、それが合図のように谷崎さんはありがとうと言った。
　こういうことって、いけないことかもしれない。
　だって、一回りも歳の離れた大人の男性を、
『かわいい』
　って思っちゃうなんて。
「それじゃ、きっと何でもできない子がお似合いなのかもしれませんね」
　照れ隠しのように、慌ててわたしが言うと、谷崎さんは素直に呟く。
「何もできなくても困るんだけどね」
　立ちあがって、デスクに戻ろうとしてる谷崎さんの正面に慌ててわたしは立つ。
　そして、もうひとつのボタンの取れそうだった左袖を、そっと掴んだ。
「それじゃ特技がひとつだけある女の子。
　例えば。そう、ボタン付けだけは得意なあたし。とか」