「似合わない」
　あたしが言おうとした言葉を、そっくりそのまま言い放った去年まで小学生だったと言う姪っ子に、先輩は大人らしからぬ表情を向ける。その腕に抱えた赤ん坊を、大事そうに抱きながら。
「おい、茅佐」
「いくらオヤジっていっても、すっごくすっごく似合わない。智が可哀相」
　確かに、似合わないのだ。
　先輩が、あの会社ではクールで有名な先輩が、赤ん坊を抱っこしている姿が。
　本当に、全くもって、似合わない。
　多分、ファンのお局様も、バイトさんも、この姿を見たら、ファンをやめる人もいるに違いないってくらい。
「おい、人のことオヤジ言うな。ガキ」
「うっさいなぁ。オヤジはオヤジでしょ」
　赤ん坊を挟んでにらみ合いをする一回り以上も歳の離れた二人に、茅佐ちゃんと智くんの母親でもある先輩のお姉さんが間に入った。
「こら、茅佐。そんな口の聞き方しないの。ごめんなさいね。果歩さん」
「いいえ」
　そういわれたあたしは、緊張しながら小声で答える。


　そう、ここは朝倉先輩のお姉さんの家。
　二人目の子供を無事出産して、帰宅したから見に来るようにと誘われた朝倉先輩は、その日デートをする予定だったあたしも連れて、やってきたのだ。
「果歩さんも抱いてあげて」
　朝倉先輩から息子を取り上げたお姉さんは、そう言ってあたしに智くんを差し出した。あたしは、恐る恐るその小さな命を預かる。
　かわいい。
　大きな目が、じっとあたしを見つめていた。
「ほら、未来のおばちゃんでちゅよ」
「へ？」
　ふいにお姉さんがそう言って、あたしは思わず顔を上げる。すると、お姉さんはあたし以上に驚いた顔をしていた。
「あら？まだそういう話してない？」
　小さく頷くと、お姉さんは済まなそうな表情に変わる。
「ごめんなさい。
　あの子…暁が彼女を紹介してくれる初めてだから、もう結婚の話とかしちゃってるんだと思ったわ」
「…いえ」
　そもそもが付き合い始めて二週間くらい。
　結婚の「け」の字も先輩からは出たことがない。
　あたしは、どこかで期待はしてるんだけど、そんな二週間で結婚したいなんて言ったら、それこそ先輩に呆れられそうだし、そんな女とは付き合えないとか言いかねられない。
　そもそも、付き合ってからも、実際のあたしと朝倉先輩の関係はほとんど変わらない。
　相変わらず先輩は強引だし、我侭だし、あたしもなんだかんだとそんな先輩にふりまわされて、今日もやってくることになったわけだし。
　小さく溜息をつくと、ふいに熱気を感じた。
　顔を上げると、さっきまで先輩とバトルをしていた茅佐ちゃんがいた。
「ねえオバサン、智、返して」
　オバサンって。あたしはまだ二十代だってば。
　それでも、茅佐ちゃんの中学生になったばかりのぴちぴちの肌を見てると、何も言えなくなる。
「あ、うん。ごめんね」
　とはいえ、中学生といえど、女は女なわけで。
　あたしの勘で言うと、茅佐ちゃんは、先輩のことが好きなんだと思う。
　だから、あたしのことを「オバサン」なんて呼ぶし、
　だから、先輩のことを「オヤジ」だなんて呼ぶ。
　茅佐ちゃんは、あたしから弟を奪い返すと、さっさとあたしの前から去っていく。
「こら茅佐。オバサンはないでしょ、果歩お姉さんでしょ」
　お姉さんはそう言ってくれてたけど、茅佐ちゃんからの返事はなかった。
「ごめんなさいね。わがままな娘で。
　それより、暁と同じ会社の同じ部署なんですって？」
「はい」
「どう？あの子。結構強引にやってるんじゃない？」
　さすが姉。
　ふふふと笑ういたずらっ子な目が、どことなく先輩と似ていて、あたしはやっと安心して話すことができた。
「たまに、上司とすごく言い合いとかしてますけど、でも、朝倉先輩ってすごく信頼厚いみたいです。結局は、朝倉先輩の意見が通ってますから」
「そう」
　お姉さんはそう言うと、再び智くんを奪ってケンカをはじめた先輩と茅佐ちゃんに視線を移した。
　二人はさっきと同じように、智くんの取り合いをしている。
「暁オジサンってば、返してよ、智」
「何だお前、ついこの間までは触りたくないとか言ってたくせに」
「うるさいなぁ。ねぇ、智ぅ」
「あ、おいお前何すんだ」
「へへへ。これで何も見えなくなったでしょ。」
「返せ、俺の眼鏡」
「眼鏡してないほうがオヤジってかわいいのに。
　しょうがない、智と交換だよ」


「果歩。どうかしたか？」
　幸せそうなお姉さんと、少しふくれっつらの茅佐ちゃんと、その腕で眠り込んでいる智くんに別れを告げ、車に乗りこんだところで、あたしが緊張感が緩んで大きな溜息をつくと、先輩がふとそう言った。
　そういえば、付き合って変わったことがひとつだけあった。
　それは呼び方。
　「大谷」から「果歩」になったこと。
「いいえ。かわいかったなって」
　小さな手に、そっと指を当てると、智くんはあたしの指をぎゅっと握り締めてくれた。
　そのとき、よくわかならないんだけど、あたしはすごく、この子を守らなきゃいけないって思ったの。これって、母性本能っていうのかなぁ。
　ハハハと笑って先輩は答える。
「まあな。俺の甥だしな」
　先輩は、意外にも子供が好きらしく、智くんがいる間は、ずっと腕に抱いて離さなかった。
　信号が赤になって、先輩が言う。
「果歩」
「はい？」
「いい加減。『朝倉先輩』ってのはやめろ」
「じゃ、なんて呼べばいいんですか？」
「暁でいいだろ、暁で」
「あき…ら？」
　呟いて、あたしは大きく頭を振る。
「無理無理っ、絶対無理っっ！」
「何でだ」
「だって、ずっと朝倉先輩って呼んできたんだもん。いきなり名前でなんて呼べないし、うっかり会社でも呼びそうだし」
　そうしたら、会社の皆にばれちゃうし、そうしたら、先輩のファンのお局様にあたしは苛められるし、バイトさんからは無視されそうだし、そうしたら、そうしたら、だって…。
「大丈夫だ。俺だって、会社で果歩って呼んだことないだろ？」
　先輩は自信満々にそう言う。
「そりゃ朝倉先輩はー」
「ほらまた言った」
　鬼の首をとったように、先輩がそう言う。
　でも、そんなこと言われても、名前で呼ぶなんて、慣れてないし、無理だってば。
　ふと先輩の表情がくるっと明るく輝いたと思うと、ハンドルから手を離して先輩が言った。
「よし。デートの時に朝倉先輩というたびに、果歩は俺にキスをする」
「なっなんでっ」
「ペナルティだ」
「何でそんなことっ…」
「いつか果歩も、朝倉先輩って呼ばれるかもしれないだろ？」
「え？」
　朝倉先輩？
　あたしが？
「それって…」
　信号が青に変わり、あたしの方を見ていた先輩は、無言のままに前を見てアクセルを踏んだ。
「それってどういう意味？」
　あたしが朝倉って呼ばれるってことは、
　それって、まさか、プロポーズ？
　運転をしてる最中だから、先輩はあたしの顔も見ずに聞き返す。
「何が？」
「だから、朝倉先輩ー」
「あ！」
　何かが横切ったのかと思うくらい、大きな声を先輩が上げた。
「な、何？」
　そして信号が赤になって、ゆっくりと車が停止する。先輩は、あたしを見つめていたずらっこな笑顔で言った。
「今言った、朝倉先輩って。じゃ、ペナルティーだな」