黙り込んだまま、目の前のその人はあたしを無視して雑誌に読みふけっている。
　文字ばかりが並んだ面白くなさそうな雑誌。
　かわいいあたしを無視して。
　ちょっと、ひどいんじゃないの？
「おい」
　思わずその雑誌を取り上げると、むっとした顔であたしを睨んだ。眼鏡の奥の鋭い瞳が、あたしを捉える。
「だって、オジさんさっきから、ずっとそれ読んでるんだもん」
「うるさい。オジさん言うな」
　目の前のその人の名前は、朝倉暁（アキラ）という。この１ＬＤＫの家の主だ。
「だって、お母さんの弟だから伯父さんじゃん」
「俺はまだ二十九だ」
「中一のあたしからみたら、充分オヤジだよ」
「なんだとこのガキ」
「うるさい、オヤジ」
　ふんっとそっぽを向くと、小さな溜息が聞こえてきた。
　どうしてママは、あたしの世話をこのオヤジに頼んだんだろう。
　パパは確かに出張中で、ママが産婦人科から退院して、まだ生まれて一週間の智（さとる）と仙台のおばあちゃんのところに三日くらいいるとなれば、あたしが家に一人になるけど、もう中学生だもの。一人でだって生活できる。
　茅佐（チサ）、と暁のオヤジがあたしの名前を呼ぶ。
「それで宿題は終わったのか？」
「当然でしょ。オヤジがやらしい雑誌読んでる間に終わったわよ」
　そう、一人で生活できる。
　だから、弟なんか、いらない。
　三日くらい前、ママが生まれたばかりの智を抱っこして言った。
『ほら、茅佐も智と握手してあげて』
　でも、あたしは全然触りたくなかった。
『やだ。いらない。こんなもの』
　そう言ったら、ママは少し悲しそうな顔をしていた。
　でもあたしは間違ったことは言ってない。
　猿みたいで、おしっこ臭くて、泣いてばかりいるくせに、
　パパも、ママも、おばあちゃんも可愛くってしょうがないなんていう弟なんて。
　あたしは、いらない。
　暁はあたしから雑誌を取り返すと、また溜息をつく。
「やらしい雑誌か？日経ビジネスが。だいたいオヤジじゃなくて、暁お兄さんと呼べよ」
　確かに、暁はあたしと十六しか変わらない。
　でも、キムタクよりも年下なのに、全然ふけていて年上に見える。
　いつだったか、ママにそう言ったら、ママはくすくすと笑って言っていた。
『暁ってば、まんまと騙してるわね』
　何を騙してるの？と聞いても、ママは本人に同じこと言って御覧なさいとだけしか答えなかった。
　オトナっていっつもそうだ。
　あたしのこと子供扱いして、知ってるくせに教えてくれない。
「暁オジサン。喉渇いた。何か飲みもの頂戴」
　言い方を変えないから怒っているのか、暁は雑誌から視線も上げずに答える。
「生憎、俺の家には酒とコーヒーしかない。おまけに、砂糖も置いてない。ジュースだったら、下のコンビニで買ってくるんだな」
　そう言って、また雑誌を広げる。
　確かにあたしはコーヒーをブラックでは飲めない。
　でも、その言い方が、その仕草が、あたしの感に触る。
「おい」
　一瞬の隙をついて、あたしは暁の眼鏡を取り上げた。
「なにすんだ、このガキ」
　フレームが鼻にぶつかったのか、暁は鼻を押さえてあたしを睨む。
　でもその瞳は、全然違った。
　全然、オヤジじゃなかった。
「返せ、眼鏡」
　暁はそっと手を伸ばしてきたけど、あたしはその眼鏡を握り締めたままで、じっと眼鏡のない暁の顔を覗きこむ。
「オヤジって」
「なんだ」
　鼻を抑えていた手が離れた。
　物心ついた頃から、暁は眼鏡をかけて、クールな表情で、いつでもあたしをお子チャマ扱いして、どっちかといわなくても、嫌いなヤツだった。
　でも、眼鏡を取った暁は、まるで高校生みたいな顔をしていた。
　っていうか、キムタクの替わりにテレビ出ててもおかしくないくらい。
　かわいい、顔。
　してる。
　そう思った途端にあたしの顔がカッと熱くなった。
「なっ。何でもない。ね、一分間黙ってみて」
「理由をニ十文字以内で述べよ」
「女に理屈はないって言ってたよ、ママ」
「姉貴の馬鹿野郎。返せ、いいから」
「やだっ」
　だってもったいないんだもん。
　こんなにかわいい顔してるのに。
　もっともっと、見ておきたいのに。
　あたしは思わず立ちあがって、暁の手から逃げる。仕方ないというように、ふらりと暁も立ちあがった。
「あのな、俺の視力は０．１ないんだぞ」
「だから？」
「危ない」
「いいじゃん。もう少しくらい−」
　そう言った途端に、いきなり暁の体が揺れて、壁にバンッと手をついて、あたしをその手で囲む。
「なっ、なにっっ？！」
「つまづいた」
　いててと言いながら、暁はつま先をなでている。どうやらテーブルに足をひっかけたみたい。
「…だから言っただろうが」
　そう言って暁はあたしから体を離す。
　それまで、暁の顔が、あたしのすぐそこにあった。
　いつも眼鏡の奥で睨んでいた瞳は、黒目がちで優しく潤んでいた。
　目が合って、ドキッとしたその一瞬に、暁はあたしの手から眼鏡を取り上げる。
　あ、と思ったけど、でもあたしは動けなかった。
　心臓が、痛いくらいにドキドキ言ってたから。
「…全然、見えないの？」
　眼鏡を拭いて、暁はさっさとかけてしまう。
　そうすると、もう立派なオトナの男の人だった。
　一瞬だけ近づけたと思ったのに、もうその背中は遠くに小さく見えるだけになってしまったように思えた。
　暁は髪をかきあげながら、少し面倒くさそうに答える。
「輪郭がはっきりしない。誰が誰だかわからない。街とか歩いても、声かけられてもそいつが知り合いかどうか、わからない。…まぁ、例外がいるけどな」
「例外？」
「好きな女くらい、眼鏡がなくてもわかる」
「…ふーん」
　静かにだけど、ドキドキしてた気持ちは、ズキズキとした痛みに変わった。
　好きなヒト、いるんだ。
　その背中は、もう見えなくなっている。
　どうせ、手に届かないんだったら、せめて。
「やめたほうがいいよ、眼鏡。暁は眼鏡かけてないほうがいい」
「呼び捨てにするな」
「だって、若く見えるし」
「別に若く見られる必要はない」
　暁はそうきっぱりという。
　どうしてなの？
「あたしは、オトナに見られたい」
「ガキはそう思うもんだ」
　そして暁はまた雑誌を広げる。
　さっき見えた、あの優しい瞳を、眼鏡の奥に隠して。
「あのね、オジサン、あたしのこと子供扱いしないでくれる？」
「ガキはガキだろ」
「何よ、それ。あたしはっ−」
「いいからガキはさっさと、宿題しろ。ここ間違えてるぞ、ほら。問三」
　つき返されたノートを受け取りながら、あたしは考える。
　悔しいけれど、今のあたしじゃ、暁には勝てない。
　でも、これからいっぱい努力すれば、きっと。
　あたしは立ちあがり、大声で宣言した。
「絶対、絶対、十年後には、オヤジがびっくりするくらいのオトナのオンナになってやるっ」
　コーヒーだってブラックで飲めるようにするし、
　お化粧だって、綺麗にして。
　そして、暁にあたしをガキ扱いさせたことを後悔させてやるんだからっ。
　暁はあたしを見つめると、くすりと笑って、冷静な声で言った。
「だったら、まずはいい姉貴になれ。そうしたら、考えなくもない」
　

　オトナってずるい。
　どうしたらあたしが、弟を「さとる」って呼ぶか、知ってるんだもん。