それは突然だった。

「あやーっ」
　外から突然聞こえてきた大声に、あたしは思わず読んでいた本を落としそうになる。
　日曜日の夜。翌日のラッシュを思い、憂鬱になる時間。
　だが、その声は、何度も繰り返されていた。
「俺が悪かったっ、許してくれっ」
　どうも、外で恋人同士が喧嘩をしてるようだ。
　こんな夜に、こんなところで。
　まったく、何してんだか。
「本当に、俺が馬鹿だったんだ。俺にはお前しかいないのに」
　へえへえ、まったくこんなくさいセリフ、よくも大声で言ってくれますな。
　そう思いながら、冷蔵庫からビールを取り出し、想像する。
　大学生のカップルかな。
　こんなこと、大声で言えるなんて。
　若くなきゃ、言えない。
ちょっぴりセンチメンタルになる私の気持ちを無視して、それでも彼は大声で訴えている。
「お前がいてくれないと、俺は頑張れないんだってことに、別れてやっと気づいたんだ」
　誰かの為に、がんばる。
　そういう気持ちを失ったのは、いつだっただろう。
　会社に勤めるようになってから？
　それとも、前の彼と別れてから？
　私の中にある感情は、いつからか、打算と妥協、惰性の中でうごめいている。
　そんな時に、この声。
　まるで、自分が「あや」ちゃんにでもなったかのように思える。
　思い出さないわけにいかないじゃない。
　そういう純粋なときが自分もあったってこと。
「あや、お前が好きだ」
　素直に好きな人にぶつかっていった自分がいたこと。
「もう１度、俺たちやりなおそうっ」
　ぽろりと自然と涙がこぼれた。
「…あはは」
　誰に対するテレなのか、笑ったところで、私は本を閉じ、一緒に目も閉じた。
　本当は、歳なんて関係ないのかもしれない。
　十八だった時も、
　二十歳の時も、
　二十五の時も、
　そして三十を目前にしてる今も。
　探し求めていることは、たったひとつなんだから。
「…よしっ」
　小さく気合をいれたところで、再び外の彼の声が聞こえてきた。
「あやっ、出てきてくれよ」
　出てきてくれ？
その言葉の意味に気づく前に、ベランダの窓にこつんと何かがぶつかった。
「あやってばさ」
　そうしてもうひとつ、窓が音を立てる。
　…私の名前は、恵美。
　だよね？


「あ」
　ベランダから見下ろすと、早とちりの彼は、現れた私に驚いて声をあげた。
　思った通り、二十歳くらいの男の子だ。
　茶色のパーマをゆるくかけた髪が、やわらかそうで、子犬みたいだなとあたしは思った。
　そう、映画で見たディカプリオの演じてたロミオみたい。
「あやさんの家は３０３。ここは３０２よ」
「あ」
「ついでに言うなら、あやさんは旅行に行ってるわ。彼と」
　戸惑いの表情が、一瞬にして凍りつく。
　黙っていることもできたけど、それはなんだか卑怯な気がしていた。
　早とちりロミオくんのまっすぐな気持ちを聞いてしまったから。
すると、突然、ぱたりとロミオくんは地面に仰向けに倒れた。
「だっ、大丈夫？」
　慌ててベランダから身を乗り出して下を見ると、そこでロミオくんは大の字になって、大きく手足を伸ばして大声で言った。
「すーっきりしたっ」
「へ？」
「わかってたんだ、あいつに他に好きな男がいるってこと」
　決してその表情は、泣いてはいなかった。
　むしろ、微笑んでいるようにすら見えた。
私はそのまま、夜空を見上げる彼を見つめる。
「それを悩んでるからさ、俺から別れようっつったんだ。
　えーかっこしーのオトナの男、演じてた」
　でも踏ん切りがつかなくて、それでこうして告白しに来た。
　言葉にならない声が、私の胸に届く。
「帰って来る日、教えてあげようか？」
　荷物を預かっているとかいって、大家さんに聞けば、わかるかもしれない。
　「あや」ちゃんも、ロミオくんの本当の気持ちを聞けば、二人はまたよりを戻すかもしれない。
　でも、その提案を、ロミオくんは断った。
「いや、いいです。あいつが幸せなら、それでいいから」
　そしてすくっと立ちあがると、大きく伸びをして、こう言ったのだ。
「それに、ずっと思ってたこと口にしたら、すっきりしたし」
　それは、本当に清清しい笑顔で、
　それは、多分ロミオくんが少し、本当のオトナの男に近づいた時だった。

　あ。
　やば。
　私は慌てて胸を抑える。
　自分の青春時代を思い出しただけじゃなくて、
　その時の私の胸は、たしかに「きゅん」といっていた。

　もう三十になるから。
　もうオトナの女だから。
　
　少し前の自分なら、そう言って諦めていたかもしれない。

　でも、ロミオくんの告白を聞いた私は、
　素直になる気持ちの大切さを思い出したところだった。
　それに、ここで諦めたら、女がすたる。

「ね、それだけ大声出したんだから、喉渇いたんじゃない？」
　帰ろうとしていたロミオくんが、私を振りかえる。
　相変わらず、子犬のような無垢な表情を浮かべて。
「ビールでも、飲まない？」

　ときめきは、いつになっても変わらない。