我輩は、猫である。
名前は、桜左近。

　なんて、有名な小説をもじってみたけれど、あたしの愛するご主人様は、この小説を読みながら、木陰ですうっと眠ってしまっている。
　ご主人様の名前は、橘右近。
　だから、あたしは桜左近。
　ちなみに名付け親は、紗那だ。
紗那に名前を付けられるまでのあたしは、名無しの権兵衛だった。
　ご主人様は、もともと無口だから、あたしに話しかけることもあまりなかったし、　それにいつも独り言のように呟いていただけだから、名前はなくでもよかったの。
「なぁ、腹減ったか？」
とか、
「おやすみ」
とか、
「ありがとう」
とか。
　あたしは生まれたときはたくさん兄弟がいた。
　でも、お母さんの家には、たくさんの兄弟がいることはできなくて、結局あたしたち兄弟は、段ボールに入れられて、公園の片隅に「拾ってください」の看板と一緒に置かれていた。
　何人もの人が通りかかって、兄弟たちはどんどん少なくなって、最後に一番おべっかを使うのが苦手なあたし一人が残された。
　そこに通りかかったのが、今のご主人様で、以来あたしはご主人様と一緒に暮らしている。



「右近っ、おはよっ」
　一日の始まりは、こうやって紗那の元気な挨拶に始まる。
　色んな事情とやらで、ご主人様とあたしは、紗那の家に居候している。いわば、紗那はご主人様のご主人様だ。
　低血圧で、朝が苦手なご主人様は、いつものことだけどそんな紗那に、返事することもなくテーブルについて、そこに置かれたコーヒーをブラックのままで飲む。ただ、機械的に。
「にゃー」
　あたしにも、と鳴くと、紗那が、
「ごめんごめん。これは左近のごはんよ」
といって、キャットフードを出してくれる。
　そうして、あたしとご主人様の一日が始まるのだ。


「あ、そうそう。これね、美味しいマドレーヌ。右近いる？」
その日紗那は朝からおやつを出した。
　ご主人様は小さく首を横に振る。ここだけの話、ご主人様は甘いものが苦手なのだ。紗那はそれにまだ気づいてないみたい。
　あのね、ご主人は、甘いものが苦手なんだよ。
と、鳴いて伝えてみたけれど、紗那は気づいていないのか、そのマドレーヌをあたしに差し出す。
「それじゃ、これは左近の分。おいしーよ」
　やった。
　何を隠そう、あたしは大の甘いもの好きだ。
　紗那も同じく。
　そうして、あたしと紗那は二人でマドレーヌをほおばった。
　思えば紗那は、あたしと一緒のことが多い。
　ご飯が好き。
　お風呂が好き。
　それから、ご主人様が大好き。
　ご主人様は、かなりの美少年だ。
　それはもう完璧なくらいに。
　ご主人様と同じ居候の、神楽たちも、それなりにかっこいいとは思うけど、あたしはやっぱりご主人様がご主人様でよかったと思う。
　それは同じ屋根の下に暮らしていても、紗那がご主人様を好きであるのと同じように。
　たぶん、あたしが人間だったら、あたしたちはとても仲のよい友達だったと思う。
　あるいは、ライバル関係だったかの、どちらかだ。



「右近っ」
　その日のおやつの時間、びっくりするほどの元気な声が、お庭に響いて、あたしはびくっと目を覚ました。
　眠っていたご主人様の胸の上で体を起こすと、あたしたちをみつけた紗那が、あっと声を上げて、それから慌てたように口を押さえた。
「ごめん、左近。お昼寝中だったんだ」
　そうだよ。まったくもう。
と答えようとするあたしに、紗那は人差し指を立てて、シーッと言う。
「静かにっ、左近。右近が起きちゃうじゃないの」
　それを言うなら、紗那の大声のせいで、あたしは目を覚ましたんだよ、と言い返したいのをぐっと我慢して、近づいてくる紗那を睨みつける。
「あーもぉ、ごめんってば左近」
無言の怒りを受け止めた紗那は、あたしの頭を一生懸命なでた。
「だってね、すごくおいしいクッキーが焼けたから、できたてを右近に食べて欲しいって思ったの」
　残念ながら、ご主人様は、甘いものは苦手だよ。
「わかってるってば、右近が甘いもの嫌いなことくらい。だからね、しょっぱいやつ作ってみたの。パプリカとか入れた辛いヤツ」
　そう言って、紗那は手に持っていたお皿からクッキーをひとつ、あたしに差し出した。
「食べてみてよ、左近」
　おそるおそるあたしは、そのクッキーのかけらを食べる。
　…おいしい。
「でしょ？だから一番に右近にって持ってきたんだけどな」
　紗那はそう言って、目の前で眠るご主人様を眺めている。
　少し残念そうな声だったのに、その寝顔を見る紗那の表情は、とても温かかくて、ふわふわと幸せそうだった。
「いいね。ここ。ぽかぽかして温かい」
　だって、あたしの一番のお昼寝ポイントだもん。
　あたしが自慢げに言う隣で、
「なんかあたしも眠くなってきちゃった…」
　紗那はふぁーっと欠伸をすると、そっとご主人様の隣に寝転がる。
「一仕事終えたから、ちょっと横になろうっと」
　そうして木陰に隠れるようにして、紗那は十秒と経たないうちに寝息を立て始めた。
　まったく。
　溜息をつくながら、あたしはもらったクッキーを食べる。
　でもいきなり口から火が吹くくらいの辛さにぶちあたって、びっくりしてぺっと吐き出した。すると、明らかに赤唐辛子が丸々と入っていた。
　やっぱり、紗那だ。
　丸ごと入れちゃうなんて。
　あたしは紗那の料理の腕を忘れて、パクパクと食べ続けてしまった自分を悔やみ、お水を飲みに、家に戻る。すると、中でも同じ現象が起きていた。
「うぇっ、なんだコレ？かれーっ」
「紗那め。香辛料入れすぎだ」
「え？結構、うまいけど、コレ」
　辛いもの好きの蘇王がそう言うけど、神楽も千寿も、大反対している。
「お前、本当に味覚まで馬鹿になっちまったんじゃねぇの？」
「この辛さがうまいと思うなんて、お前の舌は、甘いと辛いしか、わからないのか？！」
　呆れる二人をおいて、蘇王はぱくぱくとそのクッキーを食べる。
「えぇ？そうかなぁ。あ、お前らがそういうなら、コレ俺が全部食べるよ」
　やっぱり、蘇王は単細胞に違いない。
　あたしはそう思って、お水をぐいぐい飲む。
「右近、これ食べさせられてるんだろうな」
「まったく、愛情の裏返しにも、ほどがある」
　ふいに神楽と千寿の話が聞こえてきて、あたしはハッとした。
　確かに、あの後紗那にこのクッキーをご主人様が食べさせられてるかもしれない。
　危ないっ。
「あれ？左近？」
　蘇王があたしを見つけて名前を呼んだけど、あたしはそれを無視して慌ててお庭に飛び出していった。
　ご主人様っ。


　木陰が見えたところで、だけどあたしはその景色に思わず足を止めた。
　紗那はすっかり熟睡してるようで、すやすやと寝息を立てていた。
　その横で、目を覚ましたご主人様は、上半身だけ起こして、そっと自分の隣で眠ってる紗那を見下ろしていた。
　夕焼けがご主人様の顔を、ほんのり赤く染めていて、心地よい風が、その真っ黒な髪をサラサラと揺らしていた。
　その揺れる前髪の奥から、夕焼けの眩しさからか、ご主人様はその青みがかった黒い瞳を細めて、そっと紗那を見つめていたの。
夕焼けと同じくらいの、ほんのり温かい空気の中、僅かに口許を緩めて。
　そっとそっと、見守るように。
　その表情を、なんと言うか、あたしは知ってる。
　微笑、って言うんだよ。
　ね、ご主人様。
　小さくあたしが鳴くと、ふいに気づいて、あたしに向かって、そっと人差し指を立てて、口に当てる。
「しっ」
　それはさっきの紗那とまったく同じ行動で。
　あたしは、こっくりと頷きながら黙り込み、そして、もうひとつのご主人様のメッセージもきちんと受け取る。
　ご主人様。
　あたし、絶対に内緒にします。
　今ここで見たこと。
　感じたこと。
　絶対に。