「ふー」
　さりげなくついたあたしの溜息に、目の前の中嶋さんはすぐに気づいて、心配そうな表情を浮かべた。
「気分でも悪い？」
「え？あ、いいえ」
　本当をいうと、成人式ぶりにきた着物が窮屈だった。
　それに、今日がはじめてのお見合いということもあった。
　でも、この溜息の本当の理由は、些細な嘘のせい。
「大丈夫、です」
　消え入りそうな声で答えると、右隣に座っている部長の奥さんが、妙に明るく答えた。
「緊張してるのね、果歩ちゃんも」
　確かにそれも、そう。
「正明さんが、あまりに素敵な方だから」
　ええ？それは、ちょっと違うんだけど。
　そうあたしは思ったけど、左隣の部長も、奥さんも、向かい側に座る東京運輸の中嶋社長夫妻も、その息子の正明さんまでが、まんざらでもないような笑い声を上げた。
　違うってば。
　そういいたかったけど、言えるわけもなく。
「それじゃ、あとは若い二人に任せましょう」
　なんて言って、部長たちは部屋からそそくさと出て行く。
　ちょっと待ってくださいよ。
　そう部長に訴えたかったけど、そんな時間もなく、そうしてあたしは、今日のお見合い相手・中嶋正明さんと二人取り残された。
　中嶋さんは、嬉しそうににっこりと微笑みかける。
　胸がちくりと痛む。
　ああ、本当に。
　嘘なんかつかなきゃよかった。



　ことの始まりは、部長の呼び出しだった。
「大谷君は、恋人はいるのか？」
「え？」
　会議室で、思わず素っ頓狂な声をあたしがあげたのにはわけがある。
　あたしには、恋人がいる。
　同じ会社で、同じ部署の朝倉先輩。
　仕事ができて、眼鏡の似合うクールな先輩は、会社でも人気のある人だ。
　もし会社にばれたりしたら、先輩のファンの人たちからの冷たい視線を受け、あたしはこの会社でやっていけなくなる。
　つまり、内緒の恋なのだ。
　部長の質問で、あたしは、それがばれたのかと思ったのだ。
「いっ、いませんっ」
　必死にそういうと、部長のほうがびっくりして、そうかとだけ答えた。
　どうやら、ばれたわけじゃないと安心していると、部長が、実はな、と話を始めた。
「取引先の社長から、息子さんに誰か女性を紹介してほしいと頼まれてだな」
「それって、お見合いですか？」
　思わずそう言ったあたしに、部長は落ち着くようにと笑顔を浮かべていった。
「そんなに堅苦しく思わなくてもいいんだ。ちょっと食事をするくらいだから」
　でも、お見合いなんて、そんな。
　あたしは今年２４歳だし、独身だから、ちょうどいいといえばそうなのかもしれないけど、先輩がいるし。…プロポーズされたわけではないけど。
「東京運輸の中嶋社長には、いつもお世話になっていてだな、仕事上でも断れなんだよ。頼む、大谷君」
　そういって、部長はあたしに頭を下げた。
　東京運輸といえば、確かにうちの大得意だ。
　独占欲の強い先輩だから、この話を聞けば怒るかもしれないと思ったけど、事情が事情だし、食事会くらいだったら、とあたしはＯＫした。
　ところが実際は、食事の場所は式場が有名なホテルの一室だったし、部長の奥さんまで現れて、しかもあたしに着物を着せるし、どこからどうみても、お見合いとしか見えない食事会だったのだ。
　本当は先輩とデートをする予定だったのを、あたしは「友達の結婚式」と先輩に嘘をついて、やってきた
　本当のことを言っても、部長からのお願い事で、ただの他人であるフリをしてる先輩が断れるものでもないし、隣の安西さんによれば中嶋社長の息子はモデルをやっているくらいルックスもよく、モテるらしいし、そういう人があたしを気に入ることもないだろうし。
　そう思ってついた、小さな、小さな、罪のない嘘。
　でも、その小さな嘘が、あたしの心を苦しめていた。



「果歩ちゃん、どうかした？」
　正明さんが心配そうにあたしの顔を覗き込む。
「あ？いいえ。ちょっと、帯が苦しくて」
　正明さんは、実際本当にかっこよかった。でも、先輩のことで頭がいっぱいのあたしには、そんなことは関係ない。
　無理やり笑顔をつくったあたしに、正明さんは明るい声を出す。
「今日はごめん。うちの親父が、妙なこと頼んじゃって」
「いいえ…」
「俺が一向に落ち着かないから、心配になったみたいでさ。申し訳ない」
「とんでもないです」
　噂好きの安西さん情報では、正明さんはいわゆる三高で、しかもお坊ちゃまで、今まで手に入らなかったものはないと豪語するほど我侭だということだったけど、全然そんなことはなく、とても優しい人にあたしは思えた。
　どうぞ、とあたしにお茶を差し出す笑顔も、とても優しくて、思わずあたしもありがとうございます、なんて笑顔で返してしまう。
　これは、正しい情報を安西さんに伝えてないといけないな。
　先輩には、内緒。だけど。
　お茶を一口飲んだところで、突然、正明さんはテーブルに身を乗り出して、あたしを見つめた。
「でも、今日はラッキーだったよ」
「え？」
「出会いはどうであれ、君みたいな素敵な子と出会えたから」
　瞬きもせずに、じっと正明さんはあたしを見つめると、本当に唐突に言った。
「俺、君に一目ぼれしたみたいだ」
　それは、まるでドラマのワンシーンのようだったかもしれない。
　木漏れ日を受けながら、真剣な表情で語る美青年。
　でも、あたしは、そうは思えなかった。
「ごっ、ごめんなさいっ」
　カチャカチャと音を立てて、カップを置くと、あたしは慌ててそう言って、頭を下げる。
え？と正明さんが不思議そうな顔をしていた。
「どうして？好きな人がいるとか？」
　その表情が強張ったのに気づいたあたしは、咄嗟に頷いた。
「そう、そうなんです―」
「けど、君のことを好きじゃないかもしれないだろう」
「え？」
「それに、大した男じゃないに違いない」
　そんな風にいうなんて。
「いえ、あの―」
　先輩と、部長の顔が交互にあたしの頭を駆け回る。
　だけど、どちらが大事かなんて、決まってる。
「ごめんなさい。その人とは、お付き合いしてるんです」
　すると、正明さんの柔らかな表情は、みるみる硬く強張ったものとなって、いきなり椅子から立ち上がると、ぐいっとあたしの手を掴んだ。
「関係ない。そいつよりも、絶対に俺のほうがいい男だ。俺と付き合ってみればわかる。
　俺はね、今まで手に入れたいと思ったものを、手に入れられなかったことはないんだ。　それが物であっても、女であってもね」
　強く掴まれて痛む手首から、あたしはさっき思ったことが間違いだったと気づいた。
　めちゃくちゃ我侭お坊ちゃんじゃないっ。
　しかも、安西さんの情報通りの決め台詞っ。
「そんなことありませんっ。そりゃ、一見意地悪そうな顔してるけど、本当はすごく優しいし、あたしのこと大事にしてくれてますっ」
「そういう男に限って、他の女にも同じような顔してるんだぜ」
「そんなことないわっ」
　なんとか掴んだ手を離してもらおうとひっぱるけれど、正明さんはむしろあたしを引き寄せて言う。その表情には、さっきの優しさのカケラもない。鬼気迫る表情だ。
「いいや、絶対にそうだ。第一、付き合ってるからって、結婚してるわけじゃないだろう？だったら俺と―」
「こっ、婚約してるんですっっ」
　あたしは気づいたら、そう叫んでいた。
　それが、嘘であることは、何よりも私自身が知っている。
　でも、そうでも言わないと、ガバッと襲われてしまうような気がして、気づいたら、あたしは必死にこうも続けていた。
「来年には、式を挙げることになってるんですっ」
　え？というように、正明さんの手の力が抜けて、あたしは急いでその手から逃れるように一歩離れて、頭を下げた。
「ごめんなさいっ」
　そのときだった。
　バンッとドアが開けられる音がして、誰かが部屋に入ってきた。
「失礼」
　聞き覚えのある声に、あたしが顔を上げると、同じタイミングで朝倉先輩があたしの腕を掴んでいた。
「先輩？」
　眼鏡の奥で、澄んだ瞳がじろりとあたしを睨む。
　でもその瞳の奥には、きちんとした愛情があるのを、あたしは感じていた。
「帰るぞ、果歩」
　だって、そう言ってあたしの腕を引っ張る先輩は、決して力だけで連れて行こうとはしない温かさがあったから。
「誰だ、お前は」
　あたしの婚約宣言に、一瞬だけ呆けていた正明さんは、はっとしたように突然現れた先輩にそう言った。先輩は、その凄むような視線に、負けることなくサラリと答える。
「朝倉暁」
「アサクラアキラぁ？」
　明らかに先輩を見下したようなその言葉に、先輩はにやりと微笑む余裕さえ見せて、決め台詞のようにこう言った。
「悪いけど、これ、俺のもんだから」



　駐車場に来たところで、ようやく先輩の勇み足が緩み、あたしは一息ついて尋ねた。
「先輩、どうして？」
「安西さんから聞きだした。今日のことを話すお前の様子がおかしかったから」
　すべてはお見通しだったってことかもしれない。
　先輩の車に乗り込んだところで、ごめんなさいと謝ると、先輩は小さく溜息をついて言う。
「俺にも、部長にも、変な嘘はつくな」
「部長に？」
「恋人がいないだと？」
　そこまで聞きつけたの？
　ということは、安西さんにはあたしと先輩の関係がばれてしまったのかもしれない。
　そう思うと、今までのしおらしいあたしに変わって、負けず嫌いのあたしが、思わず言い返していた。
「…だって、ばれたらまずいじゃないですか」
　でも、先輩はそれを鼻で笑うかのように言う。
「何がまずい。俺は全世界の人間に言ってみせるぞ。大谷果歩は俺の女だって」
　そして、さっきの優しさとは反対に、荒々しくあたしを抱き寄せると、息ができないくらいに激しくキスを浴びせる。その激しさに、思わず先輩の眼鏡が歪みそうになるほどに。
　どれほど、心配をかけたのか。
　どれほど、やきもちをやかせていたのか。
　先輩の気持ちが痛いくらいにわかるキスだった。
「…くるし、先輩。息が…」
　ようやく唇が離れ、あたしがそういうと、先輩は歪みかけた眼鏡をかけなおしながら、いつものクールな表情に戻っていう。
「当たり前だ。嘘をついた罰だ」
　そうしてキーを回し、エンジンをかける。
　あ、部長のこと、置いてきちゃった。
　…まあでも、いっか。
　それよりも、明日なんて説明するか、だ。
　うーんと考え込んでいると、膝元に何かが乗っけられ、あたしはそれを手に取りながら、無言で車を運転する先輩の表情を見つめる。
　小さな小箱は、真っ白いリボンで綺麗に包装されている。
　プレゼント？
「指輪だ。婚約指輪」
　はっきりと先輩がそう言った。
　え？と言葉を失っていると、先輩はちらりともあたしの顔を見ないで答える。
「来年、式挙げるんだろ？」
「あ」
　さっきの聞かれてたんだ。
　そう思った途端に、あたしは自分の頬がカッと熱くなるのを感じた。
「あれはっ、とっさについた嘘で―」
「よく言うだろ？」
　先輩は、そう言って、あたしの顔を一瞬だけ見つめる。
　眼鏡の奥で、あの澄んだ瞳は、今度はいたずらっ子のように輝くのに、あたしは気づく。
　そうして、先輩は無邪気な笑みを浮かべて言う。
「嘘から出た真」