朝。
「右近っ、おはよっ」
　夕方。
「おかえりっ、右近。おいしいお菓子あるよ」
　夜。
「お風呂入ったから、右近先に入って。今日は湯布院入れたんだよ」
　そして寝る前。
「おやすみ、右近。また明日」

一日に何回右近に話しかけてるか？
そんなの数えたことがない。
だって、数えて何の意味があるの？
好きになったら、一緒にいたいし、見つめていたいって、そう思う気持ちは当然でしょ？
だから、あたしは右近のことを追いかける。
でも、ただ想ってるだけじゃ、気持ちは伝わらない。
好きですって言葉にしなきゃ、気持ちは伝わらない。
あたしは、そう思う。



「ねぇ右近、この漫画読んでみてよ。すごく、すっごく面白いんだからっ」
　晩ごはんの後片付けが終わって、リビングを出て行こうとしていた右近にあたしは、いつものようにそう話しかけた。
　でも、右近はその漫画に興味がないのか、ちらりとあたしを一瞥すると、いつものように自分の部屋へと続く階段を上り始める。
　さらりと揺れた髪が、柔らかく右近の頬に触れ、伏せた長いまつげが、頬にうっすらと影を作っていた。
　うぅ、やっぱりかっこいい！
　そして、トントントンと階段を上っていく足音を聞きながら、あたしは思う。
　きっと。
　右近は本は好きだけど、漫画は好きじゃないのよ。
　ようし、次はあたしの大好きな本を右近に貸してあげようっと。
　腕を握りしめて、気合を入れなおしているあたしの後ろで、遊びに来ていた高未がリビングに響く明るい声で言う。
「相変わらず、すごい押せ押せパワーね、紗那は」
　だって好きなんだもん。
　そう答えようとするあたしの前に、居候その１とその２が口を挟む。
「けど、右近は全然そうじゃないみたいでさ」
「つーか、むしろ真逆？」
うるっさいわねっ、蘇王も、神楽もっ。
「だって本当のことじゃん」
「紗那が話しかけても、まるっきり無視だもんな」
　なんですってぇ！
　そうじゃないわよ、違うわよっ。
　高未もふーんなんて答えないのっ。
「右近はシャイなだけなのよっ」
　あたしが思いっきりそう叫ぶと、リビングが一気にシーンとした。
　ちょっと、何よ神楽。
　その首をかしげた表情はっ。
　蘇王っ。頭を抱えないでよっ。
　千寿もっ、腕組みしないでくれるっ？！
「お前のそのポジティブシンキングも、そこまでいくとどうかと思うぜ」
「なんですってぇ！」
　神楽っ、あんたがそんなこと言える立場なのっ。
　あんたのよくいう『五万の女』だって、本当は十人くらいなんでしょっ。
「なんだとぉ？」
　すると、高未が慌てたようにして、顔を突き合わせて今にもケンかを始めそうなあたしと神楽の間に入る。
「まあまあ、落ち着いてよ。紗那も、神楽も。ホラ、千寿も無関係って顔してないで」
　そういえば、珍しく千寿が話題に入ってこないじゃん。
　あたしがそう思っていると、腕組みをしていた千寿は思い出したかのようにあたしの名前を呼んだ。
「紗那」
「何よっ」
　目には目を、歯には歯を。
　いっくら学校で秀才と名高いあんたにだって、手加減しないんだからっ。
　ガルルルッと息巻くあたしに、千寿は思いっきり肩を落として溜息をついた。
「…いや、やめておく。せっかく名案が思い浮かんだが」
　え？何よ、名案って。
「あたしも聞きたいわ、千寿」
　高未もそう言ってるんだし。
　教えてよ、千寿ってば。
「だが賭けと同じで、ハイリスク・ハイリターンだぞ」
　何よ。
　それでもいいから、言ってってば。
　あたしがそういうと、千寿は、ふっと俯きがちにしていた目を、覗き込むようにあたしに向けて言った。
「いっそ、嫌いだって言ってみたらどうだ、右近に」
　へ？
　嫌い？
　きょとんとするあたしを指差し、蘇王が千寿に言い返す。
「こいつが右近のこと、嫌いなわけないじゃん、どうみても」
「そうよそうよ、そんな嘘ついても―」
　意味がない、と言いかけたあたしを無視して、千寿はソファから立ち上がると、あたしたちの顔をじっと見つめて説明した。
「いいか。人間の心理として、追いかけられれば逃げる習性がある。特に、右近のような内向的な性格の場合は、むやみやたらに自分の領域を荒らされることを嫌う。
　そういう意味で、お前は右近にとって、邪魔な存在だ」
　むっ。
　なによ、それ。
　邪魔ってことはないでしょ、邪魔ってことはっ。
　立ち上がったあたしに、千寿は眼鏡の奥の瞳を光らせると、すっと人差し指をあたしに向けた。
「ところが、不思議なもので、人間は、いつも追いかけてくるものが、追いかけてこないと、不思議と寂しく感じる」
「そういえば、そうよね」
　うんうんと頷きながら、高未が答えた。
　同じように、神楽と蘇王が答える。
「確かに千寿の言うとおりだな」
「俺も、こうガガッと追いかけられるとさ、逃げたくなるけど、誰も来ないと寂しいもん」
　それみたことか、と高未たちを見つめた後で、千寿はあたしに視線を向けた。
「押して駄目なら、引いてみろ、だ」
　なるほど、千寿お得意の心理作戦ねっ。
　わかった。
　あたしっ、頑張るっ。



　なんて言ってはみたものの、右近はその後、部屋から出てくることはなかった。
　あたしは湯船に漬かりながら、溜息と一緒に、その作戦を考える。
　嫌い、嫌い、嫌い。
　右近に向かって、あたしはそう言えるのかな。
　嘘をつくなんて、したことないから、すごく不安。
　練習、しておこう。
「嫌い、嫌い、嫌いよ、嫌いなんだから」
　あたしの声がお風呂の中で反響する。
　嫌い、嫌い、嫌い。
「はぁ」
　あたしは溜息と共に、頭から湯船に漬かって思った。
　どうしてなんだろう。
　嫌いっていうたびに、どんどん右近が好きだと思うのは。
　どうしてなんだろう。
　こんなんで、うまく作戦いくのかなぁ。
　…ってか、何弱気になってるのっ。
　これも右近にあたしの気持ちを伝えるためよっ。
　頑張らないとっ！
　拳を上げて気合を入れなおし、お風呂から上がると、ちょうど階段から右近が下りてきているところだった。
「あ、右近…」
　右近もあたしに気づいて、思わず足を止める。
　―お風呂、空いたからどうそ。
　―今日の入浴剤は、登別カルルスだよ。
　思わずそう言おうとしたけど、その時リビングに居た蘇王が、あたしと右近に気づいて、あ、と小さな声を上げた。つられるように、同じくテレビを見ていた神楽も、千寿も、こっちに視線を向ける。
　そうだっ。
　作戦決行よっ。
「…き、嫌い。
　あたし、右近のことなんか、嫌い、大嫌いっ」
　練習の甲斐あって、何とか言い切れたけど、あたしはそのまま右近の顔も見ないで、ドタドタと自分の部屋まで戻ると、バタンとドアを閉めて、そのまま床に座り込んだ。あたしの部屋で寝ていた猫の左近が、その音にびっくりして飛び跳ねるほど、大きな音。
　言えた。
　　嫌いだって。
　大嫌い、だって。
　これで、作戦成功、のはずでしょ？
　なのに、どうしてあたしは右近から逃げ出したの？
　どうして、こんなに泣きたくなるの？
　息を整えながら、あたしはそう思ったけど、目の前の左近は、何も答えてはくれなかった。



　それから三日間、右近はあたしを見つけると、さりげなく席を外すようになった。
　あたしを意識してくれるという意味で、作戦成功だと千寿が言ったけど、あたしはすごく虚しかった。
　これなら、作戦前の方が、楽しかったのに。
　いくら返事をくれなくても、無視されても、あたしは右近に話しかけてる時、すごく幸せだったのに。
　何もやる気がおきなくて、天気のいい休みの日なのに、部屋でごろごろ寝転がっていると、ピンポーンという音がして、やってきたのは絵梨だった。
「紗那。どうしたの？最近元気ないじゃん」
　絵梨のお土産のケーキを前に、思わず溜息をつくと、心配そうに絵梨が言った。
「うーん、ちょっとね」
　どうやら絵梨は、このところ溜息ばかりついているあたしを心配して、来てくれたんだって。
　だから、ケーキもあたしの大好きなシフォンケーキを持ってきてくれたの。
　持つべきものは、やっぱり友達よねっ。
「もしかして、恋の悩み？橘くんのこと？」
　絵梨にそういわれて、あたしは大きく頷いた。
　そうなの、そうなのよっ。
　あのね、と千寿の『作戦』の話をすると、絵梨は、
「なるほどね。確かに、押し押しだったのが、急に無反応になって、つい追いかけたくなるその気持ちは、わからなくもないけど」
と答えてくれた。
　それじゃやっぱり、作戦は成功なのかな。
　そういえば、と絵梨は話を続けた。
「さっき、玄関で橘君とすれ違ったの。大きな荷物持ってたよ」
　え？大きな荷物？
「どこかに行くみたいだったけど。聞いてない？」
　うんっ。
　思い切り頷くと、絵梨は不思議そうな顔をして、
「けど、その時紗那のお母さんと話してたよ。紗那のお母さんは、それじゃあ体に気をつけてねって言ってたから」
　体に気をつけてね？
お母さんは知ってるけど、あたしは知らないの？
　どうして？
　すると、急に絵梨が心配そうな表情になって言った。
「…もしかして、家を出て行ったとかないよね？紗那のその作戦を本気にして」
　まさか。
　…でも、そういえばお菓子の匂いをかぎつけたら、必ず部屋にやってくる左近が、今日に限って現れない。
　まさか、まさか。
　右近ってば、あたしの言ったことを作戦の為の嘘だと思わないで、本気にして、家を出て行った？
「紗那？」
　突然立ち上がったあたしに、絵梨がびっくりしてそう言う。
　言わなきゃ。
　本当のこと、話さなきゃっ。
「ごめんっ、後で話すからっ」
　あたしはそういい残すと、右近を追いかけに、家を飛び出した。



　あたしはバス停を目指していた。
　もし、本当に右近が家を出て行くんであれば、まず乗るのはバスに違いないから。
　あのバス停。
　あたしと右近が出逢った場所。
　それを、別れの場所になんか、絶対にさせないっ。
　バス停にたどり着くと、ちょうどバスがやってきて、大きなスポーツバッグを背負った右近が乗り込もうとしているところだった。
「右近っ、待って右近っ」
　あたしの声に気づいた右近は、バスのステップに片足を乗せたままで、ふとこっちを振り返った。
「行かないでっ」
　一瞬だけ、右近の目が怪訝そうな表情になる。
　どうしてそんなこというんだ？
　嫌いって言ったくせに。
　どうして？
　そう右近の目は言っていた。
　違うのっ、それは作戦でっ。
　本当はっ、本当のことはっ。
「あたしは右近のことが好きだからっ、大好きだからっ」
　思い切り叫ぶと、怪訝そうにしていた右近の目が、ふっと柔らかな表情に変わる。
　それは、この上なく、綺麗で、まるで天使のような微笑だった。
　でも、それは一瞬のことで、すぐにバスのクラクションが、出発することを告げた。
　そして、閉まりかけたドアから、右近はそっと呟くように答えてくれた。
「知ってる」
　え？
　右近のその言葉を確かめようとしたあたしの前で、右近はバスのステップをのぼり、そうしてドアが閉まると、バスは放心状態のあたしを残して、走り去っていった。



「あーあ、やっぱ無理だったか」
　あたしの『報告』が終わると、蘇王があっさりとそう答えた。
　ちょっとっ！やっぱ、って何よ、やっぱってっ。
「紗那は嘘がつけないってことよ」
　フォローするように高未が答える。
　あの後家に帰ってくると、心配していた絵梨が、家にいた三兄弟と、遊びに来ていた高未に事情を話していた。
　にこやかにそういう高未に、あたしはすねて答える。
「けどさ、右近が家を出でっちゃうと思ったら」
　実は、あたしだけ知らなかったことなんだけど、右近は学校の図書委員なんだけど、この土曜日に、学校の図書室の大掃除をすることが決まって、その整理の為に泊り込みで学校にいかなきゃいけなくなったんだって。
　お母さんが、『体に気をつけてね』と言ったのは、つまりはそういうことで。
　あたしは、家に帰ってきた途端に、謝る絵梨から本当のことを聞かされた。
　ちなみに右近の相棒の左近は、天気がいいからと、家の屋根で昼寝をしていたらしく、今はリビングで絵梨のケーキをごちそうになっていた。
「つーかさ、『知ってる』って返事はどうよ？」
「脈なしってことだろ、つまり」
　思い出したかのように、神楽と蘇王がそう言う。
　ちょっと、何よ、脈なしってっ！
「お？やるか？紗那」
「右近がいなくなった途端、いつもの凶暴な紗那に戻ったな」
　何ですってぇ？
　慌てたように、高未がまたもあたしと神楽の間に入る。
「もう二人とも、そんなこと言ってないで、もっと紗那を励ましてあげてよ。ほら、千寿君も」
「いや、もう無理だろ」
「そうそう」
「打つ手なし、だな。これは」
　高未もそんな三人に呆れて、大きく溜息をつく。
「まったく、三人とも冷たいんだから。
　紗那も、落ち込まないでね」
　落ち込む？どうして？
「え？」
　あたしの言葉に、高未は驚いた表情を見せる。
　だって、あたしはあたしの気持ちをきちんと伝えられて、
　右近もそれを受け止めてくれたんだもん。
　笑ってくれたんだもん。
　それだけで、十分、幸せでしょ？
　ね。左近。
　足元の左近を抱き上げると、そうだね、と答えるように、左近はニャーと一言鳴いた。