その日も、右京は自分の決めたランニングコースを走っていた。
　夕焼けに染まる海を臨むこの道を走るのは、右京の日課でもある。
　だが、今日はいつもと違い、何となく空が暗い、と思った瞬間、ぽつりぽつりと冷たい雨が、空から降ってきた。
走りながら、右京はフードを被る。あと十分も走ればゴールとなるサッカー部の寮だった。
　全速力で走れば五分か。
　だが、その雨は、瞬く間に大粒の雫となり、地面を激しく濡らした。
　流石にこのままだと濡れねずみとなり、風邪も引くと、右京は目に付いた公園に入った。公園の中には屋根のあるベンチがあった。
　ふう、と白い息をつき、その屋根の下に入ると、更に雨が激しく振り出した。右京は被っていたフードを外すと、ベンチに座った。
　どうせ通り雨だから、と空を見上げると、ふいに「にゃー」という鳴き声が聞こえてきた。
　生まれてまもないのか、頼りないその声のする方へ振り向くと、公園の隅の公衆電話の下にダンボールが置かれ、そこから子猫が微かに顔を出していた。ダンボールの上に屋根はなく、雨はそのまま子猫へと降り続いている。どうやらまだ小さい子猫は、ダンボールから抜け出せないようだった。
　どうせなら、屋根のあるところにおいてやればいいものを。
　右京はそう思い、再びフードを被ると、公衆電話に駆け寄った。
　ダンボールには、小さな三毛猫が震えながらも鳴いていて、右京が抱き上げると、いっそう激しく鳴いたものの、おとなしくされるがままになっていた。
　再び右京がベンチに戻ると、安心したのか、子猫は激しく鳴くのをやめた。だが、その震えは止まることなく、右京は戸惑いながら、パーカーのジッパーを下げると、そっと自分の体に子猫を寄せる。そうでもしていないと、子猫が風邪を引いてしまいそうだった。
　捨て猫か。
　見た目にも、血統書付の猫とは思えなかったし、首輪もないことから、迷い猫とも思えなかった。
　いつ捨てられたのかはわからなかったが、少し骨の見えるその体からすれば、拾ってくれる親切な人間はいなかったようだ。
「にゃー」
　子猫が鳴いた。
　拾ってくれと、言われているようだった。
　だが、寮はペット禁止であったし、そもそも世話をする自信もない。
「ごめんな」
　そういって、背を撫でると、子猫は再びにゃーと鳴いた。
　いいよ、と言ってくれているような気がして、右京はいっそうその小さな体を抱き寄せた。
　少しして、雨が止む。予想通り、通り雨だったようだ。
　右京はパーカーの中から、眠り込んでしまった子猫を抱き上げる。
　その瞬間、子猫に触れていた体が、ふっと寒くなる。
　暖められていたのは、自分だったのか。
　右京はそう思うと、着ていたパーカーを脱いで、ベンチに置き、その上に子猫を寝かせた。



「あれ？右京。こんな寒いのにそんな格好でランニング？」
　寮に戻ると、Tシャツ姿の右京に、厳巳が驚いた声を上げる。
「寒くないの？風邪、引くよ」
「走ってたから、平気だ」
　右京は簡単に答えて、自分の部屋へと戻る。
　自分のとはいえ、寮であるため、部屋は知朗と同室である。
　通り雨のためなのか、部屋で雑誌を読んでいた知朗は、Tシャツ姿で帰ってきた右京に、首をかしげた。
「お前、出るときパーカー着てなかった？」
　そういえば、知朗はあのパーカーを欲しがっていたことを思い出したが、右京はなんでもなかったように答える。
「汚れたから、捨てた」
　右京はそういうと、ベッドにダイヴした。



　右京が自主トレとして毎日やっているロードワークは、朝練前と、午後の練習後の二回、同じコースを走る。
　翌朝、いつもより早く起きた右京が、牛乳を片手に、昨日の公園にやってくると、子猫はまだ右京のパーカーの中で眠っていた。だが、右京の視線に気づいたのか、ぱっと目を開けるとニャーと鳴き声を上げた。
　寮から持ってきた皿に入れた牛乳をごくごくとおいしそうに子猫は飲む。たまに、慌てるためにか、ケホケホとむせたりもしていたが、そのうちに誰も横取りしないことがわかったのか、ゆっくりと呑み始めた。そして、おなかがいっぱいになったのか、満足そうにニャーと右京に向かって鳴く。
　ありがとう。
　そういわれたような気がして、右京もそっと微笑む。
　頭を撫でると、子猫は再びニャーと嬉しそうに鳴いた。
「…がんばれよ」
　俺も、独りで頑張ってるんだから。
　右京は、近くに転がっていた小さめのダンボールを見つけると、ベンチの上に置く。そして、中に自分のパーカーを敷き、子猫を入れる。
　そうして、持ってきたマジックで、できるだけ丁寧にダンボールに書いた。
『どなたか、拾ってください』



「藤原。帰るのか？これから、特別練習なんだが」
　通常の練習が終わり、グランドを出て行こうとした右京を、そう笠間が引き止める。
　一年生の希望者が行う特別練習は、三年の笠間が中心になり、通常の練習後に週に三日ほど行われていた。
「用事があるなら、引き止めないが、今日はセットプレー中心の練習だから、お前がいてくれると助かるんだ」
　笠間はそう言ったものの、通常の技を中心とした特別練習とは異なり、セットプレーが中心の練習となれば、右京の為にもなる。
　一瞬だけ、子猫のことが気になったが、右京は特別練習に参加することにした。



　翌朝、同じように牛乳を片手に公園にやってきた右京は、ダンボールの中を覗いて、言葉をなくした。
　中にあるのは、右京のパーカーだけであり、そこに子猫はいなかった。
　あたりを見回してみたものの、子猫の姿も、鳴き声もなかった。
　誰かが拾っていったのかもしれない。
　ダンボールが小さかったから、自力で出て行ったのかもしれない。
　それはどちらも右京の憶測でしかなかった。
　だが、子猫がいなくなったことは事実であり、右京は持ってきた牛乳をそのダンボールの中に入れると、そのまま公園を出て行き、いつものロードワークに戻った。
　


　その日、練習が終わった寮に、萌子と理香が訪れ、一階のリビングでは寮生のほとんどが一緒になって騒いでいたが、右京には関係なかった。
　一人自室で、ベッドに横たわりながら音楽を聴いていると、ドアがノックされて、しばらくして遠慮がちな萌子の声が響いた。
「右京？」
　萌子は自分に背を向けるようにしてベッドに横たわっている右京を見つけると、
「ね、今月右京って誕生日なんだね」
と尋ねた。
　確かに今月の三十日は右京の誕生日であったが、右京はそのまま反応もしなかった。
　いつものこと、と思うのか、それでも萌子は右京に話しかける。
「ケンもそうなんだって。だからね、今週の日曜日に、寮で誕生日会やろうって話になってるんだけど。
　右京、何がほしい？」
　どうやらプレゼントをくれるらしい。
　だが、それでも右京は答える気はなかった。
　子猫がいなくなってから、心のどこかに小さな穴が空いてしまったようで、できるならば、右京は独りになりたかったし、欲しいものといわれても何もなかった。
「知朗なんかは、右京がパーカーなくしたから、それでいいんじゃないかって言ってるけど。
右京？」
　パーカーを思い出すと同時に、ふいに右京の頭を、子猫が掠める。
　違う。
　欲しいものが、ないんじゃない。
　欲しいものは、確かにある。
　けれど、それは手に入らないものだから。
　願っても、どうしようもならないものだから。
「ね？寝てるの？」
　子猫を思い出したところで、ふいに自分の腕に、温かいものが置かれる。　
　びくっとして右京が掴んで起き上がると、自分以上に驚いた表情の萌子がいた。
「びっくりした。起きてるなら、何か返事してよ」
　自分の腕に置かれ、今掴んでいるのが萌子の腕だと気づいた右京は、そっとその腕を離す。
　萌子の手の温かさと、その柔らかさだけが、右京の手の中に残っていた。
「話、聞こえてたんでしょ？何がいい？パーカー？それとも、ボールとか？ウェアとか？」
　右京は萌子を無視するように、ベッドから起き上がると、部屋を出て行こうとする。
　慌てたのは萌子だった。
「ねぇ…キャッ」
　ドアノブに手を伸ばそうとしたところで、背中越しに小さな悲鳴がして、右京が思わず振り返ると、床に落ちていたボールに萌子が足をひっかけて、転びかけているところだった。慌てて右京が手を伸ばし、萌子の体を引き寄せると、バランスを失った萌子の体は、そのまま右京の胸に寄りかかる形となった。
　ふいに温かな体が自分の体に触れ、再び右京は戸惑う。
　その熱は、じんわりと右京の体に伝わり、冷たくなった右京の心を温める。
「ごめん」
だがそれは一瞬のことで、すぐに萌子は体を離した。
　子猫の時と同様、離れた瞬間、右京は寒さを感じると共に、ほんの少しの寂しさを覚えた。
　萌子は、そうとは知らずに、表情の曇った右京に、再び尋ねる。
「ねぇ、誕生日プレゼント。何が、ほしい？」
　ずっとずっと、ほしかったもの。
　子猫だったわけじゃない。
　それは…。
「…温もり」
　独り言のようにそう答えると、聞き取れなかったのか、萌子は首を傾げた。
「え？」
　聞こえなかったのをいいことに、右京は萌子に背を向けて、泰然とした様子ですぐに言い直す。
「鍵のついてる一人部屋」
「部屋？」
　背中越しの声が、怪訝そうだった。
　右京は、溜息をつきながら、ドアを開ける。
「そうしたら、勝手に入ってくる人間もいない」
　廊下に出てドアを閉める瞬間、萌子の溜息が聞こえてきたが、右京は手を止めることなく、ドアを閉める。
　一瞬、今の告白を、はっきりと萌子に伝えたら、どうなっただろうかと思う。
　だが、右京はすぐにその考えを改める。
　本当に欲しいのは、ぬくもりじゃない。
　本当に欲しいのは、ぬくもりの奥にある、心。なのだから。