女の子は誰でもお姫様で、白馬の王子様を待っているものらしい。
　昔々に姉貴に言われたけど、
　俺にはよくわからなくて。
「でも姉ちゃんは、お姫様じゃなくて一般市民だよ」
と答えたら、バシッと頭を殴られて、
「あたしがお姫様であろうとなかろうと、あんたはあたしの下僕よっ」
と叱られた。


　乱暴にドアを閉めた成だが、バタンという音の代わりに、背中越しに聞こえてきたのはニヤついたケンと篤志の声だった。
「王子、傘は？」
「もう止んでるからいいよっ」
　成はそう答え、足を踏み出そうとしたところで、目の前の大きな水溜りに気づいた。先ほどの通り雨でできた水溜りは、まるで成を通させないというように、一面に広がっている。だが、成はえいっと飛び越えた。
「まあ、そんなに怒るなよ、王子」
「そうそう。早く帰って来いよ、王子。可愛い可愛い姫たちが待ってるから」
「うるっせっ」
　振り返り成が思わずそう言って、水溜りを蹴り上げると、慌てたようにケンたちは姿を隠す。
「まったく、カリカリすんなよ、王子らしくないぜ」
「いいかげんにっ―」
その呼び方やめてくれ、と言う前に、ケンたちが、あ、と小さな声を上げた。
「遅かったじゃん、萌子」
「先にもう始めてるぞ」
　慌てたように成が振り返ると、門の前には、びっくりした顔の萌子が立っていた。どうやら、いつもは怒鳴らない成が怒鳴っていたことに、驚いたようだった。
「あ…」
　だが、その理由を説明できるわけもなく、成は思わず俯いた。
　気まずい空気の中で、篤志が明るく萌子に言う。
「悪いけど萌子もさ、買出し行ってきてくれる？すぐ近くだから」
「え？うん。わかった」
　成が慌てたように振り返ると、にっこりと微笑む篤志の隣で、それでもニヤついた表情のケンが、
「いってらっしゃいませ、王子様」
と、わざとらしいくらい大声で言った。


　話は、少し前にさかのぼる。
　今日は、サッカー部の寮で懇親会のようなものがあった。
　部員も参加で、当然監督である石橋も参加だった。
　いつもと違うのは、石橋の愛娘たちがやってきたことである。
　長女・七海は六歳。
　次女・愛海は四歳。
　石橋に似ず、可愛らしい子供の登場に、理香などはかわいーなどと大声を上げていたが、その中で、成を見た七海が、
「あ、王子様だっ」
　といきなり叫んだのだ。つられるようにして、愛海まで、王子ちゃま、とはしゃぎだした。
　それが、成が「王子」というあだ名をつけられたきっかけだ。
　七海の話によれば、今七海が読んでいる「シンデレラ」に登場する「王子様」の絵が、成にそっくりなのだという。もちろん、七海がきちんと説明できたわけでなく、七海にその本を買った石橋の妻であり、彼女たちの母である利美から聞いた話なのだが、実際に少し似てるらしい。
　が、似てる似ていないは、成にとって関係のないことで、それは部員たちも同じだった。
　問題は、『王子様』という呼び名に部員全員が大うけしたことで、おかげで成は、嫌味なほどに「王子様」と呼ばれ始めたのだった。
「王子様、そのジュース取ってよ」
「王子様、姫君が遊んで欲しいって」
「王子様、食べ物足りないんだけど」
　そのたびに、成は返事をして、言われるままに動く。
　だいたい皆「王子」なんて呼んでるけど、実際は下僕じゃないか。
　が、悔しいけど、一年生である成は、上級生の命令には背くわけにはいかない。
「今度の文化祭のときは、早坂に白タイツでも履かせるか」
「それ、新入生勧誘のときにもやろうぜ」
　冗談でこういった話をしてる分にはまだましで、中には、
「監督の娘に気に入られれば、レギュラー確実だよな」
などと言っている上級生もいた。
　イライラしていたところで、ジュースが切れたとかで、買出しを命じられたのは、成にとってはラッキーなことで、しかも、萌子が他の用事で遅れて寮に来ておらず、この話を知らないことが、まだ救いでもあったのに。
「ねぇ、成って、『王子様』って呼ばれてるの？」
　ジュースを買って、店を出たところで、遠慮がちに萌子がそう言った。
　やっぱり聞こえてたんだ。
　どうせ、寮に戻れば、皆そう呼ぶだろうし。
　成は、心の中で大きく溜息を着くと、決心を固めて、話し出した。



　一通り話し終わると、萌子はくすくすと笑った。
「七海ちゃんって、六歳なのに、もう女の子してるのね」
「女の子？」
「女の子は、誰でも、白馬の王子様が現れるのを願ってるのよ」
　ふうんと成は答える。
　萌子もまた姉貴と一緒のことを言うってことは、やっぱりそういうものなんだろうか。
　ふと隣で歩く萌子を見ると、柔らかな表情で微笑んでいた。その表情に、成は一抹の不安を覚える。
　…女の子は誰でもって、ことは、萌子自身もそうだってこと？
成は、さりげなさを装って、尋ねる。
「…萌子は？」
「私？」
　成が大きく頷くと、萌子はそうね、と答えて雨上がりの空を見上げた。
「小さい頃は、いつか白馬に乗った王子様が、あたしに手を差し出して、どこか素敵なところへ連れてってくれると思ってたわ」
「素敵なところ？」
　成がそう尋ねると、萌子は困った表情を浮かべる。
「うーん。具体的にあるわけじゃないけど、そうね。
　二人が幸せになれる場所ってこと。かな」
　幸せそうに微笑む萌子を見て、成は妙に嫉妬を覚えた。
　考えてみれば、居もしない白馬の王子に嫉妬する自分もおかしいのではあるけども、そんな笑顔を萌子にさせているのは、明らかにその白馬の王子なわけで。
　足元に転がっていた小石を蹴り上げ、成は小声で言う。
「…今でも、待ってる？その、白馬の王子様」
「今は…。そうね、白馬に乗った王子様じゃなくて、私だけの王子様を待ってるのかもしれない。
　あ、答えになってない？」
　恥ずかしそうにそういう萌子に、成は小さく首を振る。
「いいや、そんなこともないよ」
　私だけの、王子様か。
　成はそう心の中で呟く。
　白馬の王子なら、無理かもしれないけど、それなら、なれるかもしれない。
　今の俺には、まだ役不足だけど。でも、もっと頑張れば。
　萌子だけの、王子様に。
　角を曲がると、もう寮はすぐだった。
　束の間の二人だけの時間は、そのドアを開ければ、もう終わり。
　門を開けると、中からはしゃいだ部員たちの声が聞こえてくる。成は、出るときに蹴り上げた水溜りを、軽々と飛び越えた。
　ドアに手を伸ばそうとして、ふと隣に萌子がいないことに気づき、成が振り返ると、水溜りの前で、萌子が困った表情を浮かべ俯いている。
　どうした？と声をかけようとした成は、萌子が水溜りを飛び越えられないかもしれないと躊躇していることに気づき、そっと左手を差し出した。
　ゆっくりと、萌子は顔を上げる。そして、そっと成の手を取ると、その手に力を込めて、ジャンプした。成も、そんな萌子に答えるように、指先だけを掴む萌子の手を、引き寄せるように握り締める。
　トン、と軽い足音がして、萌子は無事に水溜りを飛び越え、成の胸に飛び込むようにして、立っていた。
　弾んだ息を整えるため、しばらく俯いていた萌子だが、ゆっくりと顔を上げると、成を見つめて微笑んだ。
「ありがとう。王子」
「どういたしまして、姫」
　思わずそう答えてしまった照れを、笑いで隠そうとする成に、萌子は素直に微笑んだ。そして、萌子がその手を離そうとした時、成はまた、無意識にその手を逆に握り締めていた。
　萌子が驚いたように自分の顔を見上げたのを見て、成もそんな自分に戸惑った。
　だが、萌子はその手を振り払うことはなく、成をじっと見つめていた。そうしてそれまで、微笑みあっていた二人の表情は、気づけば真剣な眼差しでお互いだけを見つめていた。
　何を、言おうとしてる萌子？
　それとも、何かを言いたいのは、俺の方？
　だが、成が何かを言う前に、その静寂は、二人の小さな姫によって、破られた。
突然、玄関のドアが開き、甲高い声があたりに響き渡ったのだ。
「王子お帰り〜」
「王子っ、王子」
　思わず成は、掴んでいた萌子の手を慌てて離し、そっと背中で組んだが、すぐに駆け寄ってきた七海と愛海に、その手を捕らえられた。
「待ってたよ、王子」
「遊ぼう、王子」
　黒目がちな瞳で、見上げられ、成が答えに困っていると、ドアの向こうから、ニヤニヤした顔のケンが顔を出す。
「王子も大変だな。ひっぱりだこで。今度は両手に花かよ」
　その視線が、成を見つめた後に、一瞬後ろの萌子へと移る。
　それから、にやりと微笑んだ。
　まさか、見て、ないよな。
　じろりと睨むと、ケンは視線を逸らして、
「モテる男は辛いな、王子」
とだけ答えた。二人の小さな姫に玄関に連れこまれる前、一瞬だけ成が振り返ると、萌子はぎこちなく左手を上げて、そっと振っていた。
　さっきまで繋いでいた右手は、そっと背中に隠して。
　そして、口をパクパクさせると、何かを成に伝えていた。
　何？
　成がそう聞き返そうとしたけれど、萌子はニコニコと微笑むだけで、それ以上は何も言わずに、玄関のドアの向こうに消えてしまった。
『ありがとう、王子様』
　そう、成には聞こえた。
　ありがとう、王子様。
　王子なんてあだ名、大嫌いだと思ってたけど、いいかもしれない。
　萌子が、そう呼んでくれるのならば。
　そしていつの日か、萌子に手を差し出せるような男になったら、こう言おう。
「迎えに来たよ、姫」