チャイムを鳴らして、数秒すると、驚いた顔がドアの向こうに現れた。華やかな顔立ちだから、一層その表情が際立っている。
　どうしたの？といわれる前に、俺はそのドアに滑り込む。
「いてて。麗華、看病してよ」
　あと数センチでキスできるほどに顔を近づけ、赤く腫れた左頬を見せると、麗華は半ば呆れたように言う。
「また女の子？」
　首に両手を回し、いつものように濃厚なキスで慰めてくれるのかと思っていたのに、麗華はさっと家の中に入り、タオルを濡らして頬にあてるよう俺に手渡すだけだった。
　あれ？
　そう思いながらも、仕方なく俺はタオルを受け取って、ジャケットを床に放り、慣れない制服のネクタイを外し、シャツのボタンを三つほど開け、いつものベッドに寝転がり、頬にそのタオルをあてる。
「関係のあった方じゃなくて、その友達に、な。
　友達ふったからって、俺のこと殴るこたねぇよなぁ」
　名前は、確か、葉月…紗那、とか言ったっけ？
　黙ってりゃ、それなりに可愛い顔だったのに、すっげー剣幕だった。
　しかもすっげぇ馬鹿力。
　まったく、今日は高校の入学式だというのについてねぇ。
　麗華はくすくすと笑うと、ベッドに腰掛けて言う。
「どうしてその女の子をふったの？」
　下から見上げると、麗華は首をかしげて微笑む。
　思えば麗華と出逢った一ヶ月前も、こんな感じで、他の女に絡まれていたときだったと思う。
　声をかけてきたのは麗華で、初めてあった時から、いい女だと思った。
　漂うような色香に、物腰の柔らかなしぐさ。声。華奢な手足。そして、陶器のような白く滑らかな素肌。
　甘えるように麗華の膝に頭を乗せると、甘ったるい香水の匂いがした。
「いつもの条件で付き合ったのにさ、他の女と会うなとか言って俺の携帯勝手に見たから」
　正直、俺は女に不自由したことがない。
　基本的には来るもの拒まず、だ。
　付き合いたいという女がいたら、一応つきあう。
　ただし、束縛や嫉妬はなし、というのがその条件。
　それでもいいと、いったくせに、先にその条件を女が破った。
　悪いはその女であって、俺じゃない。
　麗華は、ふと表情を曇らせた。
「それだけ神楽のこと、本当に好きだってことよ」
　そして、そういうと、俺から逃げるように立ち上がる。何かがいつもと違う。
「どうしたんだよ、麗華」
　麗華もそうやって、お互いの条件を呑んで、付き合いだした女だ。
　　麗華は、今までの女と違って、俺が別の女の話をしても、一向に表情を変えることなかったというのに。
　もしかして、怒ったのか？
　麗華はくるりと振り返ると、肩のあたりでカールした髪を弾ませて、はっきりと言った。
「ね、神楽。別れましょう」
　嫉妬も、束縛もしない。そこにあるのは、ゲームのような恋愛と、体の関係。
　今までの女と違う麗華とは、俺はずっと長く付き合っていけるのかと思っていた。
　だからこそ、麗華のこの一言は、想像してなんかなかった。
「麗華？」
　冗談だろ？というようにその名前を呼ぶと、麗華は微笑みながら、はっきりと言う。
「その方が、お互いのためよ」
　しずかにそういう麗華は、やっぱり綺麗だった。
「…わかった」
　笑顔で俺が答えると、麗華は泣き笑いのような、複雑な表情を浮かべる。そのどこかに、捨てられた仔犬を見つめるような眼差しが少しだけのぞいて、俺は思わず言い返した。
「俺が泣き喚くと思ったのか？
　悪いけど、俺には五万と女がいるんだ。そんなこと、するわけないだろ」
　確かに麗華はいい女だけど、世の中には麗華と同じか、それ以上の女なんてたくさんいる。
　負け惜しみでなく、俺がそういうと、麗華はくすりと笑った。
「相変わらずね、神楽。　出会った頃と一緒だわ」
　そう、あのときも、嫉妬に狂った女に、俺が同じような啖呵を切ったんだ。
　俺には五万と女がいる。お前はその一人に過ぎない。初めから、そういう話だったろ？
　女は泣き喚いて店を出ていったけど、俺はそのまま店の隅で飲んでた。
　そんな俺に、麗華が言ったんだ。
『面白いこというわね。あたしもその五万の中の一人なのかしら？』
『あんたがそれを望むなら』
『じゃあ、キミもあたしにとっては五万といる男の一人ね』
　そうして、俺たちの契約は、交わされた。
　今もだけど、麗華には遠距離の恋人がいる。
　そして、パトロンのようなおじさんもいる。
　麗華の出した条件も、彼らのことは一切追求しないということ。
　俺たちは、似たもの同士で、だから一緒にいることが苦にならなかった。
　だから、ずっと続く関係だと思っていた。
　麗華は、また哀れむような視線を俺に送る。それが、俺のプライドを傷つけているとも知らずに。
「五万いても、十万いても、たった一人の人に振り向いてもらえなければ、それは幸せとはいえないわ。儚い幻想よ。私はそれに気づいてしまったの」
「悪いけど、俺、説教は大嫌いなんだ」
　そういって、ベッドから起き、ドンドンと玄関へと向かう。靴を履き、ドアを開けたところで、追いかけるように狭い廊下から、麗華の声が聞こえた。
「神楽にも、わかる時が来るわよ」



　今日は麗華の部屋に泊まる予定だったから、俺はもてあましてしまった時間をどうするか考えようと、公園のベンチに座り、携帯で次の女を捜そうとしたところで、ふと俺の常套句を思い出す。
「五万と女がいる、か」
　このセリフを使い出したのは、いつからだったろうか。
　たった一人の人が、決して振り向いてもらえないことを、知ってしまった時からじゃないだろうか。
『五万いても、十万いても、たった一人の人に振り向いてもらえなければ、それは幸せとはいえないわ』
　畜生。
　麗華の言葉が心に痛い。
　畜生。
　示し合わせたかのように、ひしひしと叩かれた頬が痛む。
　何だっけ？あの女。
　そうそう、葉月紗那。今度会ったら、ただじゃおかねぇ。
「ねぇ」
　ふいに声をかけられて顔をあげると、心配そうな表情の、二十代後半の女が俺の顔をのぞき込んでいた。
「どうしたの？怪我、したの？」
　その視線が、赤く腫れた頬に向けられてることに気づいて、俺は冗談めいて答える。
「ご覧の通り、メス猫に引っかかれました」
「大丈夫？これ、よかったら使って」
　慌てて鞄から、ハンカチを取りだし、彼女は俺に差し出した。
　俺は素直にそれを受け取る。
「ありがとう。優しいんだね、お姉サン」
「だって、捨て猫みたいだったんだもの。放っておけないじゃない」
　俺がにっこりと微笑むと、彼女も少し恥ずかしそうに微笑んだ。
　捨てる神あれば、拾う神あり、だ。
　「けど俺、猫じゃなくて狼かもしれないよ？」
　彼女は答える代わりに、俺に手を差し伸べた。微笑んだ唇が、妙に赤い。
　手を取ると、温かく、そして柔らかかった。
　今夜の寝床は決定だ。
　おそらく、彼女も五万の中の、一人の女。
　それでも、隣にいれば、その間だけでも、気がまぎれる女。
　それでもいい。
　俺は、決して幸せになれないのであれば。
　五万の女に一時だけの夢を見れるんだったら、俺は、そうして生きていくしかないのだから。