「ったくあいつら、はしゃぎすぎなんだよ」
少しばかり疲れた表情。
いくら見た目はそこそこかっこよくても、やっぱりそこには三十三歳の年齢が垣間見える。
だけど私は知っている。
自分の生徒の為に、千幸先生はLHRの時間を利用した課外授業を行おうと、いろいろ駆け回って調整してくれたことを。
だってそうじゃなければ、こんなことできやしないはずだもん。
「まあでも、いいじゃないですか、遊園地なんだし」
あたしがそう答えると、千幸先生はまんざらでもないという顔をしてから、じろりとあたしのことを睨んだ。
「つーか、ひよこ。校長には黙っとけよ」
「はい。へ？…まさか、無断で？」
「わかってるなら、聞くなっつーの」
千幸先生はそう言うと、腕組みをして座席にもたれかかり、窓の外を眺めながら呟くように答えた。
「だったら帰ろうとか言うなよ。
あいつらだって、お前との思い出を作りたいから、少しくらいのお小言は承知だ。そのくらいくみ取ってやれ」
あと数日で、あたしの教育実習期間も終わる。
そうすれば、このクラスともお別れた。
もちろん、あたしの指導教師だった伊瀬谷千幸とも。
「…はい」
そう答えるとしんみりした気持ちを隠すように、あたしも千幸先生のように窓の外を眺めた。
あたし、香取比奈子が母校に教育実習生として戻ってきたのは今から二週間ほど前のことだ。
そこで出会ったのが、指導教師となった伊瀬谷千幸先生。
パッと見はそこそこかっこいいから、一瞬ラッキーと思ったのもつかの間、千幸先生はあたしに「ひよこ」と名付けた。
それからの毎日、あたしは千幸先生に戸惑いっぱなし。
横暴、だけど、優しくて。
我侭、なのに、気配り屋。
いい加減、だけど、男らしくて。
口が悪い、のに、甘えん坊。
どれが本当の千幸先生なのか、わからなくて、いちいち振り回されてばっかだった。
でも、最近わかってきたんだ。
その全部が、伊瀬谷千幸だってことに。
帰ったら、こりゃ大目玉だな、と思う一方で、あたしはわくわくしていた。
だってこの観覧車、いつか絶対に乗りたいって思ってたんだ。
まさか初めて一緒に乗る相手が、千幸先生だなんて、思ってなかったけど。
「知ってます？この観覧車。ジンクスあるんですって」
そのジンクスは、大学の中でも有名だ。
観覧車の天辺でキスしたカップルは、永遠に結ばれる。
実際、大学の友達なんかでそのジンクスを実践したカップルで別れた人はいない。
まあ、聞いたのがつい最近だからってのもあるかもしれないけど、
誰だって何かを信じてみたいものじゃない？
「永遠ね」
あたしがそのジンクスを説明すると、千幸先生はそう呟いた。
馬鹿にするわけでも、
感心するわけでもなく、
ただそう呟いた。
「先生？」
すると千幸先生は顔を歪めて呟いた。
「好きじゃねぇな、そういうの。そうやって相手を何かに縛るってのは」
一瞬だけ、先生の表情に影が宿る。
たまに、そういう時がある。
いつもはちゃらんぽらんで、オープンマインドに見えるんだけど、そういう時だけは、全てをシャットアウトするんだ。
同じ教育実習生の京子に言わせると、それは千幸先生の過去の恋愛の傷で、
先生はまだそれを引きずっているから、三十三になっても結婚しないんだって。
でも、そんなの。
淋しすぎる。
先生にとっても、
昔の恋人にとっても、
先生を好きな人にとっても、
ハッピーなことじゃない。
「ふーん、だから先生ってば約束しないんだ」
笑い飛ばしてもらいたくて、冗談めいてそう言うと、千幸先生はにやりと笑って答えた。
「おう、臆病者で悪かったな」
そう。
こうやって自分の弱い部分を突然見せつけられるのも、先生のずるいところだ。
だって、いつもは悪ぶってる先生が、二人きりのところでそんなところ見せて、
期待しない女なんていないはず。
ぎゅっと胸を押さえたくなるあたしの前で、先生はぼんやりとした表情のままに答えた。
「けど人の気持ちなんてのは、どうやったって縛り付けてなんかられねんだよ。悲しいことに」
そうやってまた影を宿す。
先生は気づいてないんだろうか。
目の前でそうされる度に、千幸先生のことを抱きしめたくなる女がいるってことに。
気づいているはずない、か。
だって先生にとって、きっとあたしは眼中にない。
だから"ひよこ"なんて色気のないあだ名をつけたんだ。
歳の差十一。
そうはいっても、学生と教師。
わかってるはずなのに、悔しくなる。
あと数日で、あたしは先生と、あっさりと別れることしかできないのだろうか。
「だからって、今日の集合時間に遅刻してきたことの言い訳にはなりませんよっ」
「へーへー」
悔し紛れに言った言葉も、先生はさらりと流す。
言いたいのはそんなことじゃない。
そう思うと、苛立ちがあたしを襲った。
「だいたいいつも五分は遅刻するじゃないですかっ、教師として失格―」
「ひよこ」
「は、はい？」
あたしの言葉を遮って、気づくと目の前で千幸先生はお腹を抱えるようにして項垂れていた。
「俺、もう駄目かも」
「はい？」
もしかして、お腹が痛いとか？
それとも気分悪くて吐きそうとか？
でもどうしよう。
今は観覧車の中で、空中散歩中なのだ。
まさか、ここから飛び降りるわけにもいかないし―。
「腹減った…」
ぽつりとつぶやいた言葉に、あたしは思いっきり肩を落とした。
「へっ…、あっ、私チョコなら持ってたかも！」
「なぬっ。それを早く言えっ」
あたしは鞄の中から慌ててチョコを取り出すと、アルミホイルからそのチョコを切り離して先生に渡そうと伸ばした。
すると先生は、そのあたしの手首をつかむと、そのまま自分の口にあたしの指ごとチョコレートを放り込んだ。
「なっ…」
千幸先生の舌が、滑らかにあたしの指を這う。
そしてその唇からあたしの指が離れた瞬間、
「うわっ、にがっ、何だこれっ」
先生はいきなり叫んだ。
「だからチョコレートですって。でも、カカオ99％だから、お砂糖入ってないですよ」
「まじっ、つーかひよこ、持ってねぇのかよ、飲みもんっ。
俺は苦いものは大嫌いなんだっ」
「それならお茶ありますけど。じゃコーヒー飲むときどうするんですか？」
「砂糖もミルクも入れるってのっ。あーもういいから鞄貸せっ」
千幸先生はそういうと、あたしから鞄をひったくるようにして奪い取り、中を探し始めた。
そして中からお茶のペットボトルを見つけると、大慌てでそれを呑む。
するとまるで消火器に火を消されたように、千幸先生の表情は穏やかになっていく。
ほんと、子供みたいなんだから。
くすりと笑うと、濃厚なカカオの香りが漂ってきた。
そう、あたしの指先にはさっき先生が食べたばかりのカカオ９９％のチョコレートがついていたのだ。
どうしよう。ハンカチで拭くか、それとも…。
あたしは目の前で、顔をまたしかめながらお茶を飲み干す先生をちらりと見てからこっそりと自分の指についたチョコレートをなめる。
確かに、苦い。
でも、心はほんのりと甘い。
観覧車は、そろそろ天辺に着く頃。
直接とはいかなくても、間接キスの場合、ジンクスってどうなるのかな。
全然ダメ？
それとも、少しは叶う？
だったら神様、せめて今日の所はフィフティーフィフティーにして、次回に持ち越しってできないかなあ。
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